2024/01/01

唐(6)

https://timeway.vivian.jp/index.html

高宗が死ぬと、則天武后が実権を握りました。彼女と高宗とのあいだに二人の息子がいる。まず中宗が即位しますが、かれの政治は則天武后の気に入らない。中宗を退位させて、もう一人の息子、睿(えい)宗を即位させます。則天武后は、この睿宗も気に入らないんですね。とうとうかれも退位させて、自分で即位してしまった(位695~705)。63歳位のときです。

 

 こうして、中国史上唯一の女性皇帝が誕生しました。武照(ぶしょう)というのが彼女の本名です。皇帝家が李家から武家へ変わったので、国号も周と変更しました。若い男を寝室に引っ張り込んだりといったスキャンダルがあって、昔から彼女の歴史的な評価はあまり良くなかったんですが、女だからという理由で必要以上に貶められているところがあります。

 

 則天武后という呼び名にしても、これは高宗の皇后としての呼び方であって皇帝としての名前ではないのです。女だから皇帝名で呼んでやらないという伝統的な女性蔑視を引きずっている。一応、教科書にしたがって説明していますが、武則天(ぶそくてん)といった方がいいのです。

 

  則天武后が政治をおこなうときに北周、隋、唐とつづいてきた支配者集団は当然非協力的です。則天武后は鮮卑系の武人集団でも南朝以来の伝統的貴族階級出身でもない。個人的な美貌と才覚だけでのしあがった人ですからね。皇帝としては、自分の手足となって動いてくれる忠実な官僚がたくさん欲しい。そこで彼女は中央だけで実施していた官僚登用試験を全国に広げます。試験で採用された官僚たちは門閥がありませんから、則天武后に忠節を尽くすことで出世するしかない。女だからいうことをきかない、とはいかないのです。

 

 というわけで、則天武后の時代に新官僚層が政界に進出して、南北朝以来の旧勢力と対抗する力をつけてきます。言い換えれば貴族ではない官僚層が政権中枢部に登場してきた、ということです。則天武后は皇帝ですから実力行使もします。この時代に殺された貴族と、その家族は千人は下らない。ともかく新しい人材を登用していったことが彼女の政治上の功績です。

 

則天武后は最晩年には、息子の中宗が再び即位して国号も唐に戻されました。やがて則天武后は死ぬんですが、中宗の皇后がまた問題でした。韋后(いこう)というのですが、彼女ずっと則天武后のやり方をみているのね。自分もあんなふうに、と考えた。則天武后は夫の高宗が死んでから皇帝になったのですが、韋后は中宗が死ぬのを待ちきれない。とうとう娘と共謀して毒殺してしまった。さすがに、これはやりすぎだった。中宗の甥で睿宗の息子の李隆基(りりゅうき)が兵士をひきいて宮中に乗り込んで、韋后らの一派を排除しました。則天武后から韋后までのゴタゴタを「武韋の禍(ぶいのか)」といいます。ただ、これはあくまで唐の宮廷内での事件で、一般民衆の生活とはあまり関係はない話です。

 

  唐の宮廷を正常化した李隆基は、やがて第六代皇帝となります。これが唐の中期の繁栄をもたらした玄宗(位712756)です。即位したのが28歳です。能力もやる気もあって、ばりばり働く。かれを補佐した有能な大臣たちはみな、則天武后の時代に頭角をあらわしてきた人たちなので、玄宗の成功はある意味では彼女のおかげかもしれません。玄宗時代の繁栄を「開元の治(かいげんのち)」と呼びならわしています。太宗の「貞観の治」とセットで覚えておいてください。

 

皇帝の仕事というのは、まじめにやれば非常にしんどい。宮廷での政務というのは早朝、それも夜明け前に始まる。皇帝は午前三時頃にはもう起きて、威儀を正して宮廷にお出ましになる。そして、次から次へと官僚たちが持ってくる書類を決裁していくのです。正午になる頃にようやく仕事に一段落をつけて、それから以降がプライベートタイムです。こういう日常の仕事をきちんとこなしていくのは大変で、皇帝は一番偉いのですから手を抜こうと思えば抜ける。だけれど、そうすると宦官や外戚などの実力者が勝手な振る舞いをするようになるんですね。

 

 玄宗はまじめに仕事をつづるのですが、この人は長生きをした。皇帝に定年制度はありませんから、死ぬまで働きつづけなければならない。即位30年を越え、年齢が60近くになってくると、さすがの玄宗も仕事に飽きてきた。政治に熱意を失ってきます。

 

 こういうときに、かれが出会ったのが楊貴妃です。楊貴妃は、もともとかれの息子の妃の一人だったのですが、何かのきっかけで玄宗は彼女をみそめてしまう。息子の後宮からもらい受けて、自分の後宮に入れてしまった。簡単にいえば息子から嫁さんを奪ったのね。滅茶苦茶ですね。楊貴妃は、どういう気持だったか。皇帝になれるかどうかわからない皇子の後宮にいるよりも、現皇帝に愛された方がいいです。多分。そして彼女はこのチャンスをしっかりつかんで、玄宗の愛を独占するのに成功しました。 玄宗と楊貴妃の世紀の愛の始まりです。

 

 ロマンチックに語られることの多い二人の恋愛ですが、出会ったときの玄宗の年齢が61、楊貴妃は27歳です。年齢を知ってしまうと、ちょっと引いてしまいますね。玄宗は、夜が明けても宮廷に出てこない。正午近くまで楊貴妃の寝室でたわむれている。そういう日々がつづくようになりました。

 

これは玄宗と楊貴妃を描いた絵、後世の想像図ですがね。椅子に座っているのが玄宗。その前で舞を踊っているのが楊貴妃です。玄宗は音楽が趣味で、笛の演奏が得意だった。かれの兄弟も音楽好きで、よく三兄弟でアンザンブルを楽しんだらしい。それに合わせて、楊貴妃は舞ったり歌ったりしたのでしょう。これは華清池(かせいち)という長安近郊の温泉地です。二人は、よくここに遊びに来た。現在も有名な観光地です。中国旅行で、ここも行きましたよ。ガイドがここが楊貴妃が入った湯船だ、なんていっていましたが、ありゃ嘘だね。コンクリートにタイル張りのきれいな湯船でしたよ。

 

玄宗の政治は当然、公正さを失っていきました。出世したければ楊貴妃に取り入ればよい、そういう風潮がはっきりしてきます。政府の中核が腐敗してきます。ついに玄宗の晩年に唐帝国を大きく揺るがす大反乱が勃発するのですが、それは次回のお話。

0 件のコメント:

コメントを投稿