2024/01/14

ムハンマド(4)

政治家としてのムハンマド

ムハンマドは、世俗的な意味においても世界史を塗り替えた人物である。アラビア半島を統一してイスラーム帝国の礎を築いた。死後に築かれた巨大な世界帝国には遥か及ばないものの、その初期段階としての国家組織と軍隊を生前に確立しており、世界宗教の創始者としては、これも他に例がない。ムハンマドは生涯26回も自ら信徒を率いて戦い、多くの戦いで先手を取り、ときには策略を用いて、何度も不利な戦闘で勝利するなど、すぐれた軍事的指導者でもあった。また情勢を客観的に分析することができ外交も得意であった。統治者としてのムハンマドは、勇敢で英知ある行動をとることも少なくなかった。[要出典]

 

対異教徒政策

イスラムのアラビア制覇は征服によるものばかりではなく、他部族への宣教、懐柔によるところも大きい。イスラーム教徒はもちろん、多くの非ムスリムもムハンマドを当時としてはたいへん寛容な人物であったとしており、クルアーンの初期の啓示からも、そのことが確認できる。

 

マッカとの交戦時代には、マディーナ憲章で互いの信仰が保証されていたにもかかわらず、アラブのユダヤ教徒との宗教的・政治的対立に悩まされ続けた。特にマディーナへの移住以降、外来の自身とムスリムたちのマディーナでの地位向上を巡って、内外の勢力との対立を深め、ユダヤ教徒であるカイヌカー族(Banu Qaynuqa)などはマッカ側と内通するなどしていた。6244月、ひとりのムスリムとカイヌカー族のある男性との殺人事件をきっかけに武力対立が顕在化し、ついに同族の砦を包囲陥落。かれらはメディナから追放された。これを機に、キブラの方向はエルサレムからマッカに変更された。

 

異教徒に対する態度についていえば、自発的な改宗を期待し、ズィンミーを払うことを条件に他教を認めて寛容であった。アラビア半島からユダヤ教徒が完全に追放されたのはウマル[要曖昧さ回避]の治世である。

 

人種差別の否定

ムハンマドは、最期の説教で「アラブ人は非アラブ人に優越せず、非アラブ人はアラブ人に優越しない。白人は黒人に優越せず、黒人は白人に優越しない。人はただ正しさによってのみ優越する」と言っている。

 

ムハンマドと女性

イスラーム共同体(ウンマ)がヒジュラとマッカ征服によって急速に勢力を拡大すると、抗争をくり返していたアラビア半島のアラブ諸部族は共同体の首長であるムハンマドの政治交渉における誠実さを見込み、彼と同盟関係を結ぶなどした。この過程でムハンマドは共同体内部の有力家系の婦女の他に、征服した勢力や同盟・帰順関係を結んでいたアラブ諸部族などからも妻を迎えることとなった。ムハンマドの女性観、女性関係は、ムハンマドが非ムスリムを中心として批判される原因ともなった。

 

ただし預言者ムハンマドが複数の未亡人を妻として迎え入れたことについて、クルアーンは『戦争により夫を亡くした女性の地位を守るため』と記述している。12人目を迎え入れた際、神からの啓示が下され、迎え入れた女性に対し平等に接するため、妻は4人までと定められたとクルアーンには記されている。

 

ムハンマドに遡る結婚規定について

イスラーム法の法源であるクルアーン、およびハディースでは結婚に関する規定やムハンマドに由来する逸話がいくつか存在する。クルアーンによれば、男性には娶って良い女性と、娶ってはならない女性があることが述べられている。

 

「汝らに娶ってはならぬ相手として、自分の母、娘、姉妹、父方のおばと母方のおば、兄弟の娘と姉妹の娘(ともに姪)、授乳した乳母、同乳の姉妹、妻の母、汝らが肉体的交渉をもった妻が以前に生んで連れて来た養女(継娘)、今汝らが後見している者、未だ肉体的交渉をしていないならば、その連れ子を妻にしても罪はない。および汝らが生んだ息子の妻、また同時に二人の姉妹を娶ること(も禁じられる)。過ぎ去った昔のことは問わないが。アッラーフは寛容にして慈悲深くあられる。」(クルアーン第423節)

 

ハディースが伝えるところによると、ムハンマドの妻のひとりでアブー・スフヤーンの娘ウンム・ハビーバからの伝承として、彼女が自分の妹もムハンマドの妻として迎えて欲しいと願い出たが、妻の姉妹とは結婚出来ないので「私には許されない」と答えて断った。そこで彼女は、アブー・サラマの娘ドッラをムハンマドが妻として欲しているという噂を聞いたので、ドッラとも結婚してはどうかと尋ねたが、ムハンマドはアブー・サラマとは彼の母スワイバの乳でともに育った自分の乳兄弟であり、その娘を娶る事は乳兄弟の娘を娶る事になり、これも自分には許されないと反論して断り、「ともかく、あなた方の娘や姉妹たちを私に勧めてはいけない」と諭したとい。

 

同様の例が他にもあり、ムハンマドの叔父ハムザ・ブン・アブド・アル=ムッタリブの娘と結婚しないのかと人から尋ねられた時、ムハンマドは「彼女は私の乳兄弟の娘だから」と言ってこれを否定している。

 

また、本人の許諾無しに強制的に女性が親族たちよって結婚させられることは無効とされた伝承もある。例えばハンサーウ・ビント・ヒザームという女性は離婚したものの、彼女の父親によって無理矢理再婚させられ、これをムハンマドに訴え出た時、ムハンマドはこの結婚を無効としたという(ただし、実際に歴史上でこれらの子女が望まない結婚を強制された場合、どれだけ無効と出来たかは裁判記録などの精査を要する)。

 

ザイナブ・ビント・ジャフシュとの結婚に関して

ムハンマドの養子であったザイド・イブン・ハーリサの妻ザイナブ・ビント・ジャフシュは、ムハンマドの従姉妹にあたり、ごく初期に改宗したひとりである。ヒジュラに同行してマディーナへ移住したが、ザイドとザイナブはこの時、結婚生活が上手くいっていなかったようで、ザイドの家に訪れた時に何度もムハンマドに離婚したいとの相談をした。しかし、ムハンマドは夫婦の仲を取りもち離婚を許さず、「アッラーフを畏れ、妻をあなたの許に留めなさい」とたしなめて離婚を抑えるようにしたが、ザイドは高貴な一族の出身であるザイナブが、もともと奴隷の身分であった自分を夫として認めることが難しいことに悩み、夫婦仲は難しくなるばかりだった。

 

修復不可能な夫婦関係を解消するために、ザイドはザイナブとの離婚手続きを済ませた。しかし自分との離婚後、身分の高いザイナブの処遇が心配された。当時の慣習では、養子であっても息子の妻を父が娶ることを禁止されていたが、イスラームにおいては、養子が実子を名乗ることは禁止され、血がつながっていない養子の妻は離婚後であれば、父親が娶ることは問題がないとしたクルアーンの見解を、預言者自らが実際に実現し、慣習を払拭するために、クルアーン第3337節の啓示により、「養子は本当の親子と同じものではない」、「養子の妻は養子が彼女を離婚した後は、自分の妻としても問題はない」クルアーン第3337節「アッラーフの恩恵を授かり、またあなたが親切を尽くした者に、こう言った時を思え。『妻をあなたの許に留め、アッラーフを畏れなさい。』

 

だがあなたは、アッラーフが暴露しようとされた、自分の胸の中に隠していたことを恐れていた。寧ろ(むしろ)あなたは、アッラーフを畏れるのが本当であった。それでザイドが、かの女に就いて必要なことを済ませ(離別し)たので、われはあなたをかの女と結婚させた。(これからは)信者が、必要な離婚手続きを完了した時は、自分の養子の妻でも、(結婚にも)差し支えないことにした。アッラーフの命令は完遂しなければならない。」と明示された。

 

高貴なザイナブは離婚後、その身を案ずることなく、ムハンマドの妻という最高の処遇を与えられ、627年に妻となった。ちなみに、このザイナブ・ビント・ジャフシュは結婚の後、預言者ムハンマドの寵愛を巡ってアーイシャと競った事で有名だが、上記の啓示の事を引き合いにして結婚式の当日「あなた方を嫁がせたのはあなた方の親達ですけれど、わたしをめあわせたのは七つの天の彼方にいますアッラーフに他なりません」と言ってムハンマドの他の妻達に誇ったと伝えられる。ブハーリーの『真正集』「神の唯一性の書」第223項および4項など。

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