公卿として
延暦25年(806年)3月17日、桓武天皇が崩御する。
自ら立つこともままならないまま号泣された皇太子・安殿親王を、田村麻呂と春宮大夫・藤原葛野麻呂が抱きかかえて殿を下り、そのまま玉璽(八尺瓊勾玉)と宝剣(天叢雲剣)を奉じた。
18日に中納言、21日に中衛大将を兼ね、5月18日に安殿親王が平城天皇に即位すると側近として重んじられていく。
平城天皇の勅命を奉じて、富士山本宮浅間大社を現在地に遷座して社殿を造営したとされるは、この頃である。
大同2年(807年)4月12日、右近衛大将となり、8月14日に侍従を兼任。10月に「伊予親王の変」が起こると、11月12日に伊予親王と母・藤原吉子が心中した。
この事件では、藤原雄友と藤原乙叡も処分さたことで藤原南家が没落することになるが、平城天皇の侍従であった田村麻呂が、この事件にどのような対処をしたかはわかっていない。
11月16日に兵部卿を兼任、大同4年3月30日に正三位に進む。
平城太上天皇の変(薬子の変)
大同4年(809年)4月1日、平城天皇が健康上の理由で皇位を皇太弟・神野親王に譲位して上皇となり、皇太子には平城天皇の高岳親王が立てられた。平城天皇の寵愛を受けていた藤原薬子と、その兄・藤原仲成は譲位に反対するものの、13日に嵯峨天皇が即位する。
譲位後に健康を回復させた平城上皇は、12月4日に生まれ故郷の平城京へと移り住んだ。
嵯峨天皇は大同5年(810年)3月に蔵人所を設置し、6月には平城天皇の治世で設置された観察使の制度を廃止する。これに激怒した平城上皇を薬子と仲成が助長したことで、二所朝廷といわれる対立が起こる。
9月6日に平城上皇が平安京を廃して、平城京へ遷都する詔勅を発したことで「平城太上天皇の変(薬子の変)」が始まる。平城京遷都の詔勅にひとまず従った嵯峨天皇は、坂上田村麻呂・藤原冬嗣・紀田上らを平城京造宮使に任命した。
9月10日、平城京遷都の拒否を決めた嵯峨天皇は、固関使を伊勢国・近江国・美濃国の国府と関に派遣して仲成を捕らえ、右兵衛府に禁固の上で佐渡権守に左遷し、薬子には尚侍を剥奪して宮中から追放の詔を発した。この日の一連の流れのなかで、田村麻呂を大納言に昇任させて事件に対処させている。
嵯峨天皇側の動きを知った平城上皇は激怒して9月11日早朝、挙兵することを決断し、薬子と共に輿に乗って東国へと向かった。平城上皇側の動きに対して嵯峨天皇は、すぐさま田村麻呂に上皇の東国行きを阻止する命を出す。田村麻呂は美濃道より上皇を追うにあたり、上皇側についたとして禁固されていた文室綿麻呂の同行を願って許可されている。田村麻呂は、宇治・山崎両橋と淀市の津に兵を配した。この夜に仲成が射殺されている。
9月12日、平城上皇が大和国添上郡越田村にさしかかったとき、田村麻呂が指揮する兵が上皇の行く手を遮った。平城上皇は田村麻呂に阻まれたことで東国行きを諦め、平城京へと戻って剃髪して出家し、薬子は毒を仰いで自殺した。ここに平城太上天皇の変が終結し、同時に藤原式家も没落した。この事件では、空海が鎮護国家と田村麻呂の勝利を祈祷している。
晩年
弘仁2年(811年)1月17日、嵯峨天皇が豊楽院で射礼を観覧した際に、12歳の葛井親王の武芸を褒めた。1月20日には、中納言・藤原葛野麻呂や参議・菅野真道らと共に、前年の暮より入京していた渤海国の使者を朝集院に招いて饗応した。
田村麻呂は粟田口の別荘で病の身を臥せていたが、弘仁2年5月23日に54歳で病死した。嵯峨天皇は田村麻呂の死を悼んで「事を視ざること一日」と政務を取らず、田村麻呂を讃える漢詩を作って一日を過ごした。
27日に葬儀が営まれ、その日のうちに山城国宇治郡来栖村に葬られた。その際に天皇から勅があり、死後も平安京の守護神となるよう甲冑、兵仗、剣、矛、弓、糒、塩と共に立ったまま柩に納められ、平安京の東へと向かって埋葬された。嵯峨天皇は田村麻呂の遺品の刀剣から一振りを選んで坂上宝剣とし、皇室を守護する御剣として御府に納め、歴代天皇に相伝される王権の象徴となった。
系譜
著名な子孫に三十六歌仙・坂上是則、頼光四天王・坂上季猛、伊達政宗の正室・愛姫などがいる。
田村麻呂の孫・坂上当道の子である坂上当澄は、小野篁の養子となって小野良実に改名したとの説がある。
篁が承和5年(843年)に隠岐へ流罪されると、良実も連座して肥後国へ配流され、前年の承和4年(842年)に起こった「承和の変」で出雲に左遷された文室秋津の娘が肥後国の良実のもとで妻となり、承和12年(845年)頃に長女・寵子、嘉祥3年(850年)頃に次女・小野小町が生まれたとされる。
良実は貞観7年(865年)3月に出羽郡司として下向した。坂上氏、小野氏、文室氏は軍事貴族として関係が深かった。
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