2025/08/06

坂上田村麻呂(12)

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死後と神格化

現在、田村麻呂が埋葬されたのは京都市山科区の「西野山古墓」とされている。

歴代将軍が平安京より出征する際には、田村麻呂の墓で戦勝を祈願するのが慣例であった。

西野山古墓付近から出土した金装大刀や金銀平脱双鳳文鏡など一級の副葬品から、埋葬者は最上級の扱いで葬られた貴族であったことが窺え、その出土品は一括して国宝に指定されている。

 

弘仁3年(812年)、嵯峨天皇の勅によって鈴鹿山の二子の峰に祭壇が設けられた。

田村麻呂が弓箭を納めたという地に、綿麻呂が祠を建てたと伝わる田村大明神がある。

鈴鹿大明神と共に鈴鹿峠を守る夫婦神として、東海道を往来する旅人に崇められた。

田村大明神と鈴鹿大明神は、共に片山神社に合祀されている。

 

弘仁13年(822年)4月8日には、坂上田村麻呂公を主祭神とする滋賀・田村神社が創建され、厄除の大神として今も崇敬される。

 

子孫である坂上季猛(卜部季武)が田村麻呂の御持弓を御神体として創建した宝塚・松尾神社は、将軍家の祖神として源頼朝や足利尊氏など歴代将軍から崇敬された。

 

人物

外見

『田邑麻呂伝記』なる書物には身の丈5尺8寸(約176cm)、胸の厚さ1尺2寸(約36cm)の堂々とした姿であった。眼は鷹の蒼い眸に似て、鬢は黄金の糸を繋いだ様に光っていたという

 

この事が後述の白人説の根拠になり、創作作品では金髪碧眼キャラで描かれる事もある。

 

ただし、この書物には「動静は機に合い軽重は意に任す」として田村麻呂の体重は201斤(約120キロ)、少ない時で64斤(38キロ)だったともあり、信憑性は非常に低い。

 

器量

立ち居振舞いは、怒って眼をめぐらせば猛獣も忽ち死ぬほどだが、笑って眉を緩めれば稚児もすぐ懐に入るようであったと、その誠実さや高潔な品性を称えられた。

武芸についても、張良の武略と蕭何の奇謀を併せ持つと最大級の賛辞が贈られている。

 

毘沙門天の化身

『公卿補任』に「毘沙門の化身、来たりて我が国を護る」とあり、生前には毘沙門天の化身と評価されていた。

『陸奥話記』では「北天の化現にして希代の名将」と記されている。

 

毘沙門天と同一視された源流は、岩手県北上市の準官寺・陸奥国極楽寺(国見山廃寺跡)に「田村麻呂が異敵降伏のため毘沙門天を祀った」とする由緒からである。

この極楽寺の影響から、田村麻呂と同一視された毘沙門天が造像されて北上川流域に成島毘沙門堂、立花毘沙門堂、藤里毘沙門堂などが広まり、東北地方の毘沙門天信仰は田村麻呂と結びつけられて伝説化していった。

この地方の「毘沙門天の脛に味噌を塗る」という風習も、泥の中から現れた毘沙門天が足下を泥に塗れながら田村麻呂の窮地を救ったという伝説による。

 

奥州藤原氏が栄華を極めた時代に、悪路王伝説が創出された平泉の達谷窟毘沙門堂では、大将軍(坂上田村麿公)の本地を毘沙門天とする田村信仰発祥の霊場としている。

 

信仰

田村麻呂自身は、観世音菩薩に篤く帰依した。

京都・清水寺創建の大本願とされ、開山堂(田村堂)では坂上田村麻呂・高子夫妻の木像が安置されている。また坂上氏の氏寺とされ、田村麻呂の子孫は清水寺別当を世襲した。

 

清水寺の本尊は「清水寺形千手観音」という特殊な形式であり、両脇侍も地蔵菩薩と毘沙門天とする特殊な三尊形式である。両脇侍は、清水寺創建の由来を綴った清水寺縁起に由来して別名「勝軍地蔵」「勝敵毘沙門」と呼ばれ、地蔵菩薩は鎧で武装した上に袈裟を着け、兜をかぶり、剣を持つ特殊な形の像である。

 

京都の伝説は、清水寺縁起をベースとして千手観音が鈴鹿山の鬼神討伐を手助けするなど、田村麻呂を毘沙門天の化身とした東北地方の伝説とは趣が異なる。

 

評価

第一高等学校(現在の東京大学教養学部)の倫理講堂に、小堀鞆音の描いた学問の菅原道真と武芸の坂上田村麻呂の歴史画が文武両道の象徴として飾られていた。

現在は駒場博物館所蔵。

 

平安時代を通じて優れた武人として厚く尊敬されたため、後世に様々な影響を与えている。

軍記物語では、田村麻呂に由来を求める記述が数多くあり、『義経記』では源義経が学んだという兵法書「六韜三略」は田村麻呂が読んで功績を残したものとされ、『太平記』では新田義貞の振るう「鬼切」は、田村麻呂が鈴鹿御前と剣合わせに使用したとされた。

 

大正5年(1916年)に丙五圓紙幣の候補として名前が挙がったが、時代は日清・日露戦争の直後、第一次世界大戦真っ只中であった。

しかし国粋主義的な時世のため、渡来系氏族であった田村麻呂は相応しくないとされたため断念した。戦前に紙幣の候補となった7人(武内宿禰・日本武尊・聖徳太子・藤原鎌足・和気清麻呂・坂上田村麻呂・菅原道真)のうち、現在まで紙幣に描かれなかったのは田村麻呂だけである。

 

日本国外での知名度

異人の出自を持つ武士の祖として(誤解も含めて)欧米など海外での知名度も高い。

 

ただし、坂上田村麻呂が後世の武家と全く関係が無いわけではないが、田村麻呂が多くの武士の祖先というわけではなく、武士が形成されるのはもっと後の時代である。

 

上記の『田邑麻呂伝記』に描かれた容姿から、坂上田村麻呂白人説という怪しげな説、果ては坂上田村麻呂黒人説という荒唐無稽な風説もある。

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