■要素のつなぎ(トランジション)
■定義:総ての技術要素を繋いでいる、多様で複雑なフットワーク、ポジション、動作、ホールド。プログラムのハイライトを繋ぐ、スケーティングステップと要素。プログラムのハイライトを繋いだり、その価値を高めることによって、要素が孤立せずにプログラムの一部をなすような、様々なステップや動き、要素を評価する。要素の繋ぎの評価には、次のことが考慮される
9. 情景
10. きつね火の踊り
11.パントマイム
12.愛の戯れの踊り
13.終曲~暁の鐘
全13曲中『火祭りの踊り』ばかりが突出して有名になってしまっているが、これまで紹介してきたように他にも素晴らしい曲が目白押しである。バレエ音楽『三角帽子』と並ぶファリャの代表作とされるのは納得できるし、スペイン情緒をより満喫できるのは『恋は魔術師』の方であり、まことに甲乙つけがたい。
「ファリャの代表作」という枠を飛び越えて「スペイン音楽の傑作」、いや「Classic音楽の傑作」と言って過言ではない。
6. 魔法の輪(漁夫の物語)
7. 真夜中(魔法)
8. 火祭りの踊り
『恋は魔術師』は、ジプシー娘のカンデーラの物語で、その恋人のカルメロは彼女の以前の恋人であった浮気者男の亡霊に悩まされている。そこで彼女は友人の美しいジプシー娘に亡霊を誘惑してもらい、その隙にカンデーラはカルメロと結ばれる、という筋である。本作品はジプシーたちのアンダルシア訛りの歌が、違和感無く曲調にあてはまるほど実にアンダルシア的である。また『火祭りの踊り』と『恐怖の踊り』に代表されるよう、特筆すべき美しさと独創性が顕れる瞬間を感じさせる音楽作品でもある。
ファリャは1907年から1914年までパリに留学して研鑽を積み、帰国後すぐ、マドリードで数々の名作を発表した。1915年に初演を見た『恋の魔術師』は、やや後の『三角帽子』(1919年)とともに彼の手になるバレエ音楽の傑作で、先のオペラ以上にファリャの名を高めるのに役立った。
ピアノ独奏曲その他に編曲されて、とりわけよく知られた神秘的でまたエネルギッシュな「火祭りの踊り」はこのバレエ曲中、後段でジプシーたちが夜、魔除けのために火を焚いて踊る場面の音楽である。カスタネットの華やかな音色と、激しいリズムで曲をいっそう引き立てる。バイタリティのあふれたリズムとカラフルな音色感、フラメンコ的パトスなどが奔流となっている。炎の燃え上がる有り様を迫真に描いた、極めてスペイン情緒豊かな作品である。
1. 序奏と情景
2. 洞窟の中で(夜)
3. 悩ましい愛の歌
4. 亡霊
5.恐怖の踊り
1914年、世界大戦が始まったため、スペインに戻り作曲家として活躍するが、病弱な彼は晩年アルゼンチンに渡り、その地で1946年に亡くなる。敬虔なカトリック信者で自分に厳しく、作曲するときは常に新しい作風を試みた為、作品数は多くなかった。生涯独身で過ごし、彼の遺書には自分の作品を演奏しないように書かれていたが、周囲に反対され上演される事になった。
『恋は魔術師』は、『三角帽子』とともにファリャのもっとも有名な作品の1つである。中でも曲中の『火祭りの踊り』などは、特に良く知られている。
著名なジプシーの舞踊家のパストーラ・インペリオの依嘱により、歌入りの音楽劇(ないしはフラメンコ)として1914年から1915年にかけて室内オーケストラのために作曲され、1915年4月15日にマドリッドのテアトロ・デ・ララにおいて初演された。この初期稿の上演は、あまり芳しくない評価に終わった。そのため彼は1915年から1916年にかけて改訂を行い、演奏会用の組曲『恋は魔術師』を制作した。編成も室内オーケストラから、独唱とピアノを含む2管編成オーケストラに改められている。
この改訂稿は1916年にマドリッドのリッツ・ホテルにおいて、バルトロメウ・ペレス・カサス指揮、オルケスタ・フィルハルモニカによって初演され、好評を博した。この成功を受けてバレエ化を決意したファリャは、シエーラとともにバレエ用の脚本を考え音楽に最終的な改訂を行った。9年後の1925年にパリのトリアノン・リリック劇場において、舞踏家ラ・アルヘンティーナとビセンテ・エスクデーロによって上演された。
その後、1925年になってファリャは、この作品をフル・オーケストラのためのバレエ音楽として改作し、それにあたって内部の再構成も行なったが、メゾソプラノの独唱入りという特徴はそのまま引き継がれた。
都内の梅の名所を訪ねる。
まずは小石川後楽園。
東京都文京区後楽にある都立庭園。江戸時代初期に水戸徳川家の江戸上屋敷内につくられた築山泉水回遊式の日本庭園(大名庭園)であり、国の特別史跡及び特別名勝に指定されている。
1629年(寛永6年)、水戸徳川家水戸藩初代藩主・頼房が築いた庭園を、2代光圀(水戸黄門)が改修、明の遺臣朱舜水(朱之瑜)の選名によって「後楽園」と命名して完成させた。出典は『岳陽楼記』の「天下の憂いに先じて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」によっている。
7万平方メートル以上の広大な園内には、蓬莱島と徳大寺石を配した大泉水を中心に、ウメ、サクラ、ツツジ、ハナショウブなどが植えられ、四季を通じて情緒豊かな景色が広がる。
また、中国の文人たちが好んで歌った西湖や廬山もとり入れている。徳川光圀は朱舜水を設計に参加させたといわれており、中国的、儒教的な趣好が濃厚である。
1869年(明治2年)の版籍奉還により、旧藩主徳川昭武が邸宅とともに新政府に奉還し、そののち東京砲兵工廠の敷地の一部として陸軍省の所管となった。1874年(明治7年)以降、明治天皇の行幸および皇族の行啓を受け、外国人観覧者も多く世界的にも名園として知られるようになった。
1923年(大正12年)3月7日、国の史跡および名勝に指定された。指定の際、岡山の後楽園と区別するため「小石川」を冠した。1952年(昭和27年)には文化財保護法に基づく国の特別史跡および特別名勝に指定され、今日では、都立公園として整備され、一般に公開されている(有料)。
続いて百草園(もぐさえん)。
多摩丘陵の一角である、東京都日野市百草560番地に所在する庭園。現在は、京王電鉄が所有しているため、正式名称を京王百草園(けいおうもぐさえん)という。
園内には、若山牧水の歌碑、松尾芭蕉句碑などがある。また、園内にウメが約800本と多く、梅の名所としても知られ、毎年2~3月に梅祭りが開かれる(最寄りの百草園駅に、京王線の優等列車が臨時停車する)。
沿革
享保年間:寿昌院殿慈覚元長尼が松連寺を再建し、それに伴い百草園が造営される。
明治初期:松連寺は廃寺。百草園は地元出身の生糸商人が所有。
1957年:京王帝都電鉄(現・京王電鉄)に移管。
海外初演は1942年6月29日、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールにてヘンリー・ウッド指揮。アメリカ初演は1942年7月19日、アルトゥーロ・トスカニーニ指揮、NBC交響楽団。世界にラジオ中継された。アメリカ国内では、1942年からその翌年にかけて62回も演奏されている。
初演の権利をめぐってトスカニーニ、ストコフスキー、クーセヴィツキーの3者間で争奪戦が起こり「放送初演:トスカニーニ、公開初演:ストコフスキー、初録音:クーセヴィツキー」で決着したが、結局正式初演を行ったのはトスカニーニであった。
レニングラード初演に先立って7月7日、レニングラードから疎開していたエフゲニー・ムラヴィンスキーとレニングラード・フィルハーモニー交響楽団が、ノヴォシビルスクにて演奏を行った。そして1942年8月9日、カール・エリアスベルク指揮、レニングラード放送管弦楽団(現在のサンクトペテルブルク交響楽団)でレニングラード初演が決行された。包囲下の中、特別機で総譜が届けられ前線から急遽、演奏家たちを呼び戻しオーケストラの欠員を補充した。
この日は、まさにドイツ軍のレニングラード侵入予定日であったが、演奏会のためにレオニード・ゴヴォロフが軍事作戦を発動させ、ソ連軍が激しい砲撃を行ったためドイツ軍の攻撃が止み、満員の聴衆は砲声が聞こえないことに訝りながら、フィルハーモニーホールに集まった。
日本初演は1950年5月17日、東京の日比谷公会堂にて上田仁指揮、東宝交響楽団。曲の構成は、各楽章の副題がナチスの侵略を想起させると判断した作曲者本人により廃案とされた。
第4楽章
勝利のフィナーレ。大きく3部分に分かれている。第3楽章から切れ目なく続く、地響きのような低音とともに序奏が始まる。ここで登場する「タタタター」という同音連打はモールス信号の「V」、すなわち「Victory」を表すとされ、曲中で執拗に登場する(ベートーヴェンの「運命」の動機のパロディという説もある)。急速なアレグロ調で開始する重要なモチーフが、第1部で圧巻の展開を見せる。
「作品の輝かしい帰結」と称された第2部では、サラバンド調の音楽が遅いテンポで続く。それは戦争の犠牲者を哀悼するようである。第3部においては、その速度を維持したまま基本モチーフが重厚に展開され、結末へのただ1本のクレッシェンドを形成する。その頂点で、第1楽章の第1主題(「人間の主題」)が全楽器の絶叫によって打ち立てられ、序奏の同音連打が勝利の宣言となる。
「レニングラードこそは我が祖国、我が故郷、我が家でもあります。何千という市民の皆さんも私と同じ想いで、生まれ育った街並み、愛しい大通り、一番美しい広場、建物への愛情を抱いていることでしょう」
としたあと、この作品を市民の前で発表することを誓って終わっている。
このラジオ放送の中で
「この町で普段と変わることなく、日常生活が営まれていることをお伝えしたいからです」
という部分があるが、そのレニングラードを、すでに飢餓という亡霊が徘徊していた。
現在では、ショスタコーヴィチはこの作品において、ナチス・ドイツのみならずソ連政府の暴力をも告発しているのだという説が有力になりつつある。そのため、記憶を現代に伝える歴史的な記念碑的作品としての見方もあり、再評価の動きが高まりつつある。
レニングラード包囲前の1941年8月頃から作曲が開始され、12月に完成。ただし第1楽章は、もっと前から出来上がっていたとする証言もある。ショスタコーヴィチは独唱、コーラスとオーケストラのためのダヴィデの詩篇のテキストに基づく曲を作曲し始めたが、7月19日にはその構想を捨て、のちに交響曲第7番の一部となる曲を書き始めた。それは単楽章で最後は何らかの合唱で終わるはずのものであったが、このような過程を経て最終的には4楽章の形に速やかになった。
第3楽章
ショスタコーヴィチには珍しいタイプのアダージョであり、比較的叙情的で明るい内容を持つ。冒頭、崇高だが悲痛な嘆きをも思わせるコラール主題がffで奏された後、陽気で息の長い旋律が現れる。中間部では大地を疾走するような音楽が続き、再現部になる。バロック様式を採りながら、祖国愛を表現しており、第4楽章へと切れ目なく続く。
この曲は第二次世界大戦のさ中、ナチス・ドイツ軍に包囲(レニングラード包囲戦)されたレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)市内で作曲された、戦争をテーマとした交響曲として知られる。音楽の内容は極めて壮大で、ナチスのファシズムへの反感もあって初演当時から共産圏はもちろん、非共産圏においても高く評価されていた。しかし、そこにはソ連のプロパガンダを強く感じさせるものもあり「壮大なる愚作」との評も、このことと関係がある。そのため冷戦の激化とともに、作品の評価の下がった時期もあった。
1970年代後半に出された「ショスタコーヴィチの証言」でこの作を「スターリンによって破壊され、ヒトラーによって止めを刺された」と、レニングラードを意味すると書かれたころに評価が変わり始めた。
作曲者の発言
作品完成直後の1941年12月27日に、疎開先クイビシェフでショスタコーヴィチ家のパーティーに招かれた隣人フローラ・リトヴィノワは、作曲者の次のような発言を回想している。
「ドミトリー・ドミトリエヴィチは言った。
『ファシズム、それはもちろんあるが、ファシズムとは単に国家社会主義(ナチズム)を指しているのではない。この音楽が語っているのは恐怖、屈従、精神的束縛である』
その後、ドミトリー・ドミトリエヴィチ(ショスタコーヴィチ)は、第7番ではファシズムだけでなくソビエトの全体主義も描いたと語った」
1941年には、ショスタコーヴィチは
「人類の偉大な天才ウラジーミル・イリイチ・レーニンに捧げる私の交響曲第7番を完成させたいと思っている」
と言明していたが、1941年9月17日の作曲者によるラジオ放送は、多少のプロパガンダ的な要素もあるが多くの市民に感動を与え、抗戦意欲を高めた。
「一時間前、私は新しい交響的作品の最初のふたつの2楽章を書きあげました」
という呼びかけで始まる放送は、作品完成の暁には第七交響曲となることを説明したあと、故郷レニングラードへの熱い想いを訴えた。
第2楽章
木管による、哀愁を帯びた主題が印象的である。戦闘の苛烈さを表すかのような金管の激しい咆哮でクライマックスを迎えるが、再現部で悲しげな表情に戻り静かに終わる。
1942年3月29日、プラウダ紙上にて
「私は自分の第七交響曲を我々のファシズムに対する戦いと我々の宿命的勝利、そして我が故郷レニングラードに捧げる」
と作曲者によって表明されたことから『レニングラード』という通称を持つ。
ショスタコーヴィチの全作品中でも、交響曲第5番と並び最も有名かつ人気のある曲のひとつでもあるが、題材や書法を巡って一部には「壮大なる愚作」との評もある。ショスタコーヴィチの交響曲の中で、最も演奏時間が長い。
第1楽章
提示部では、まず生命力に満ちた第1主題「人間の主題」が、力強く描かれる。第2主題「平和な生活の主題」は極めて澄み渡った美しい主題で、後半においてピッコロ、独奏ヴァイオリンに印象的な高音のモチーフが現れて消えてゆく。その静けさを小太鼓のリズムが打ち破り「戦争の主題」に置き換えられた展開部に突入する。この展開部は、ラヴェルの『ボレロ』に影響を受けたといわれ「戦争の主題」が小太鼓のリズムに乗って、楽器を変えながら12回繰り返される(この小太鼓の用法は、ニールセンの『交響曲第5番』との関連が指摘される事がある)
その結末において全合奏による暴力的な侵攻が描き出された後、第2金管群が抗戦のテーマを訴え、しばらくの間は2群の金管を擁した大迫力の音楽が続く。小太鼓が途切れた時点で第1主題が悲痛に叫ばれると音楽は静かになり、再現部に入る。第2主題が提示部と対照的にファゴットにより暗く悲しげに現れ、第1主題は明朗に奏でられるが、やがて悲劇的な色彩を強める。極めて静かに奏でられるコーダでは、戦争の継続を示す「戦争の主題」が再び登場し、その活動的なイントネーションは第4楽章における勝利を予感させる。
提示部
第1主題「人間の主題」は「ソヴィエト国民の持つ勇気と自信・・」、第2主題「平和な生活の主題」は、第1主題とともに「自由なソヴィエト人の肖像その勇気と堅忍・・・理想への熱望ともにみられよう」というような解釈が、かつてはよくなされていた。「戦争の主題」は、前半部はムソルグスキーのオペラ『ボリス・ゴドウノフ』第1幕、自作の『ムツエンスク郡のマクベス夫人』からの、後半部はレハール作曲のオペレッタ『メリー・ウィドウ』からの「ダニロ登場の歌」の引用であるという説がある。
かつて、この主題は勇猛果敢なソビエト軍を表現しているという解釈が一般的であったが、前者は民衆が脅されてボリスに帝位につくよう懇願するのと、カテリーナが自らの犯罪をカムフラージュするための嘘泣きする主題であり、すこぶる意味深長である。もし後半の主題がレハールの引用であるとすると、この主題はドイツ軍を表現していると考えるのが自然であるということになる。ちなみに、レハールはヒトラーからの支持を受け保護されていた。ダニロの歌には「それでも俺はマキシムに行くぞ。あすこは神聖な祖国を忘れさせてくれる」という歌詞があり、作曲者の子息の名がマキシムである事を考えても、かなり重要な意味を持つといわれている。
「戦争の主題」は、バルトークが『管弦楽のための協奏曲』の第4楽章で引用しており、ショスタコーヴィチへの揶揄ともナチス批判とも取れる。
正式名称は「ピアノとトランペット、弦楽合奏のための協奏曲 ハ短調」といい、作曲と同年に作曲者自身のピアノと、フリッツ・シュティードリー指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団の演奏によって初演された。その題名にもかかわらず、トランペットはしばしば皮肉っぽい合の手を入れ、ピアノの走句のユーモアやウィットを醸し出しているため、必ずしもピアノと対等な独奏楽器(もしくは独立した旋律楽器)であるとは言えない。結果的に古典的な協奏交響曲や二重協奏曲というよりは、伝統的なピアノ協奏曲に近い。
解釈次第ではあるが、以下の3つ(ないしは4つ)の楽章から構成される。
Allegretto
Lento
Moderato
Allegro con Brio
第3楽章「モデラート」は、独立した楽章というよりは、その短さから、終楽章の導入部と見なしうる。それにもかかわらず、両者は雰囲気が非常に異なることから、たいてい別々の楽章として扱われる。トラック数が3つしかない録音の場合は
Moderato - Allegro con Brio
のように表記されている。
作品全体をシニカルな性格が貫いており、ベートーヴェンの《熱情ソナタ》と《失われた小銭への怒り》やハイドンのピアノ・ソナタからの引用句、「正しくない調性」への横滑り、特殊奏法の要求やアンバランスな音色による風変わりな楽器法、ロシア音楽に伝統的な歌謡性の否定とリズミカルな楽想への極端な依存によって、当て擦りのような印象がもたらされている(ハ短調という調性は、ラフマニノフの《ピアノ協奏曲
第2番》と同じである)
1927年の1月に、ショスタコーヴィチはワルシャワで開催されていたショパン・コンクールのソヴィエト代表に選ばれた。ショスタコーヴィチは、ピアニストとしても成功を収めたいと考えて優勝を望んでいたが、優勝を逃してしまい名誉賞しか取れなかった。優勝を逃した時のショスタコーヴィチは深く落胆し、ピアニストとしての野心に影をさすこととなった。
ピアノでの失敗から、ショスタコーヴィチは全てのエネルギーを作曲に集中させることにし、1930年代までにはショパンやプロコフィエフのピアノ協奏曲のソリストとして活発に活動を続けていた。が、ピアニストと作曲家の2つのキャリアを充実した形で両立することは困難であると痛感し、事実上公開の演奏活動を2年間休止した。後に1933年に演奏活動に復帰するにあたって、自身の作品の演奏のみピアニストとしてステージに立つことで問題の解決を図った。
1920年代から30年代にかけてショスタコーヴィチは、驚異的なスピードと熱心さで作曲を行い、多様で幅広い作品を生み出した。その一例として、ピアノ独奏曲『24の前奏曲』やオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』、そしてピアノ協奏曲第1番などが完成されていた。ピアノ協奏曲第1番は、1933年の3月6日から7月20日にかけて作曲された。トランペットの独奏パートは、当時レニングラード・フィルハーモニー交響楽団の首席トランペット奏者のアレクサンドル・シュミュトの手腕を想定して作曲した、といわれている。
初演は同年の10月15日に、ショスタコーヴィチ自身のピアノとフリッツ・シュティードリーの指揮とレニングラード・フィルハーモニー交響楽団の演奏によって初演され、大成功を収めた。この初演の成功により、作曲家とソリストとしても大きな成功を収めることとなった。作品番号30番台の中では最も人気が高く、現在では演奏会で取り上げられることが多い。
第3楽章 - 第4楽章
ピアノと「協奏」するのは弦楽合奏とトランペットだけという、実に簡素な編成の曲である。そのトランペットは、もうひとつのソロ楽器と呼んでもいいほど重要な役割を果たす。例えば、レントの第2楽章の再現部で弦の伴奏でトランペットが入ってくる部分では、トランペットにミュートをつけて、殆どジャズのブルースと言ってよい雰囲気を出していてゾクゾクさせられる。また第4楽章の終わりの方で、イタリアを思い出させるようなメロディーを奏する部分、そしてピアノがハ長調の和音を強打し続けるのと掛け合いで延々と吹きまくるところなど、どれもトランペットの冴えを見せてくれる。
曲全体としては慌ただしく騒がしい感じが支配的だが、メロディーや響きの美しい箇所も多く、聴きやすく明るい曲であり、交響曲でこうした趣きの曲が生まれるのは「第9番」まで待たねばならない。