正式名称は「ピアノとトランペット、弦楽合奏のための協奏曲 ハ短調」といい、作曲と同年に作曲者自身のピアノと、フリッツ・シュティードリー指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団の演奏によって初演された。その題名にもかかわらず、トランペットはしばしば皮肉っぽい合の手を入れ、ピアノの走句のユーモアやウィットを醸し出しているため、必ずしもピアノと対等な独奏楽器(もしくは独立した旋律楽器)であるとは言えない。結果的に古典的な協奏交響曲や二重協奏曲というよりは、伝統的なピアノ協奏曲に近い。
解釈次第ではあるが、以下の3つ(ないしは4つ)の楽章から構成される。
Allegretto
Lento
Moderato
Allegro con Brio
第3楽章「モデラート」は、独立した楽章というよりは、その短さから、終楽章の導入部と見なしうる。それにもかかわらず、両者は雰囲気が非常に異なることから、たいてい別々の楽章として扱われる。トラック数が3つしかない録音の場合は
Moderato - Allegro con Brio
のように表記されている。
作品全体をシニカルな性格が貫いており、ベートーヴェンの《熱情ソナタ》と《失われた小銭への怒り》やハイドンのピアノ・ソナタからの引用句、「正しくない調性」への横滑り、特殊奏法の要求やアンバランスな音色による風変わりな楽器法、ロシア音楽に伝統的な歌謡性の否定とリズミカルな楽想への極端な依存によって、当て擦りのような印象がもたらされている(ハ短調という調性は、ラフマニノフの《ピアノ協奏曲
第2番》と同じである)
1927年の1月に、ショスタコーヴィチはワルシャワで開催されていたショパン・コンクールのソヴィエト代表に選ばれた。ショスタコーヴィチは、ピアニストとしても成功を収めたいと考えて優勝を望んでいたが、優勝を逃してしまい名誉賞しか取れなかった。優勝を逃した時のショスタコーヴィチは深く落胆し、ピアニストとしての野心に影をさすこととなった。
ピアノでの失敗から、ショスタコーヴィチは全てのエネルギーを作曲に集中させることにし、1930年代までにはショパンやプロコフィエフのピアノ協奏曲のソリストとして活発に活動を続けていた。が、ピアニストと作曲家の2つのキャリアを充実した形で両立することは困難であると痛感し、事実上公開の演奏活動を2年間休止した。後に1933年に演奏活動に復帰するにあたって、自身の作品の演奏のみピアニストとしてステージに立つことで問題の解決を図った。
1920年代から30年代にかけてショスタコーヴィチは、驚異的なスピードと熱心さで作曲を行い、多様で幅広い作品を生み出した。その一例として、ピアノ独奏曲『24の前奏曲』やオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』、そしてピアノ協奏曲第1番などが完成されていた。ピアノ協奏曲第1番は、1933年の3月6日から7月20日にかけて作曲された。トランペットの独奏パートは、当時レニングラード・フィルハーモニー交響楽団の首席トランペット奏者のアレクサンドル・シュミュトの手腕を想定して作曲した、といわれている。
初演は同年の10月15日に、ショスタコーヴィチ自身のピアノとフリッツ・シュティードリーの指揮とレニングラード・フィルハーモニー交響楽団の演奏によって初演され、大成功を収めた。この初演の成功により、作曲家とソリストとしても大きな成功を収めることとなった。作品番号30番台の中では最も人気が高く、現在では演奏会で取り上げられることが多い。
第3楽章 - 第4楽章
ピアノと「協奏」するのは弦楽合奏とトランペットだけという、実に簡素な編成の曲である。そのトランペットは、もうひとつのソロ楽器と呼んでもいいほど重要な役割を果たす。例えば、レントの第2楽章の再現部で弦の伴奏でトランペットが入ってくる部分では、トランペットにミュートをつけて、殆どジャズのブルースと言ってよい雰囲気を出していてゾクゾクさせられる。また第4楽章の終わりの方で、イタリアを思い出させるようなメロディーを奏する部分、そしてピアノがハ長調の和音を強打し続けるのと掛け合いで延々と吹きまくるところなど、どれもトランペットの冴えを見せてくれる。
曲全体としては慌ただしく騒がしい感じが支配的だが、メロディーや響きの美しい箇所も多く、聴きやすく明るい曲であり、交響曲でこうした趣きの曲が生まれるのは「第9番」まで待たねばならない。
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