「レニングラードこそは我が祖国、我が故郷、我が家でもあります。何千という市民の皆さんも私と同じ想いで、生まれ育った街並み、愛しい大通り、一番美しい広場、建物への愛情を抱いていることでしょう」
としたあと、この作品を市民の前で発表することを誓って終わっている。
このラジオ放送の中で
「この町で普段と変わることなく、日常生活が営まれていることをお伝えしたいからです」
という部分があるが、そのレニングラードを、すでに飢餓という亡霊が徘徊していた。
現在では、ショスタコーヴィチはこの作品において、ナチス・ドイツのみならずソ連政府の暴力をも告発しているのだという説が有力になりつつある。そのため、記憶を現代に伝える歴史的な記念碑的作品としての見方もあり、再評価の動きが高まりつつある。
レニングラード包囲前の1941年8月頃から作曲が開始され、12月に完成。ただし第1楽章は、もっと前から出来上がっていたとする証言もある。ショスタコーヴィチは独唱、コーラスとオーケストラのためのダヴィデの詩篇のテキストに基づく曲を作曲し始めたが、7月19日にはその構想を捨て、のちに交響曲第7番の一部となる曲を書き始めた。それは単楽章で最後は何らかの合唱で終わるはずのものであったが、このような過程を経て最終的には4楽章の形に速やかになった。
第3楽章
ショスタコーヴィチには珍しいタイプのアダージョであり、比較的叙情的で明るい内容を持つ。冒頭、崇高だが悲痛な嘆きをも思わせるコラール主題がffで奏された後、陽気で息の長い旋律が現れる。中間部では大地を疾走するような音楽が続き、再現部になる。バロック様式を採りながら、祖国愛を表現しており、第4楽章へと切れ目なく続く。
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