2007/02/25

ファリャ 恋は魔術師(El amor brujo)(1)

 1.     序奏と情景

 

2. 洞窟の中で(夜)

 


3. 悩ましい愛の歌

 


4. 亡霊

 


5.恐怖の踊り


 マヌエル・デ・ファリャは、多くの管弦楽作品を残してスペイン近代民族主義の音楽の頂点を築いた作曲家である。1876年スペイン最南端のカディスに生まれ、21歳でマドリッド音楽院に入学、31歳でパリに渡り、デュカのアドヴァイスにより独学でオーケストレーションを学んだ。

 

1914年、世界大戦が始まったため、スペインに戻り作曲家として活躍するが、病弱な彼は晩年アルゼンチンに渡り、その地で1946年に亡くなる。敬虔なカトリック信者で自分に厳しく、作曲するときは常に新しい作風を試みた為、作品数は多くなかった。生涯独身で過ごし、彼の遺書には自分の作品を演奏しないように書かれていたが、周囲に反対され上演される事になった。

 

『恋は魔術師』は、『三角帽子』とともにファリャのもっとも有名な作品の1つである。中でも曲中の『火祭りの踊り』などは、特に良く知られている。

 

著名なジプシーの舞踊家のパストーラ・インペリオの依嘱により、歌入りの音楽劇(ないしはフラメンコ)として1914年から1915年にかけて室内オーケストラのために作曲され、1915415日にマドリッドのテアトロ・デ・ララにおいて初演された。この初期稿の上演は、あまり芳しくない評価に終わった。そのため彼は1915年から1916年にかけて改訂を行い、演奏会用の組曲『恋は魔術師』を制作した。編成も室内オーケストラから、独唱とピアノを含む2管編成オーケストラに改められている。

 

この改訂稿は1916年にマドリッドのリッツ・ホテルにおいて、バルトロメウ・ペレス・カサス指揮、オルケスタ・フィルハルモニカによって初演され、好評を博した。この成功を受けてバレエ化を決意したファリャは、シエーラとともにバレエ用の脚本を考え音楽に最終的な改訂を行った。9年後の1925年にパリのトリアノン・リリック劇場において、舞踏家ラ・アルヘンティーナとビセンテ・エスクデーロによって上演された。

 

その後、1925年になってファリャは、この作品をフル・オーケストラのためのバレエ音楽として改作し、それにあたって内部の再構成も行なったが、メゾソプラノの独唱入りという特徴はそのまま引き継がれた。

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