2007/02/01

ロッシーニ オペラ『タンクレーディ(Tancredi)』act2

 


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海岸を望む宮殿の庭。一艘の帆掛け舟が接岸し、タンクレーディと部下たちが下船する。タンクレーディは祖国への無事帰還を感謝し、恋人との再会を思い描いて喜びと不安に浸る(アリア「おお、祖国よ!君はわが心を燃え上がらせ」)

そこにアメナイーデが父アルジーリオとやって来るので、彼は隠れて様子を伺う。

 

「タンクレーディ(Tancredi)」という名前だが、決して女性(Lady)と言うわけではない。しかし、この作品ではロッシーニが主役のタンクレーディに、女性歌手を充てたことが大きな特徴である。この当時、フランス革命の影響を受けてカストラート(「castrato」は、近代以前のヨーロッパに普及した、去勢された男性歌手のこと)が歌劇場から追放されたが、テノールはまだ主役を張るには未熟な状態であった。そこでロッシーニが目をつけたのが、カストラートと同じ声域を有するコントラルト(女声の低音域。アルト)歌手だった。

 

秘かにシラクーサに帰国していたタンクレディを見たアメナイーデは、何も説明せずに彼に身の危険が迫っているので逃げることを勧める。アルジーリオは、娘にタンクレーディのメッシーナ到着を告げ、シラクサに戻れば死刑にすると言い渡し、改めてオルバッツァーノとの結婚を強要し、その場を去る。

 

182937歳の時、最高傑作とされる「ウィリアム・テル」をパリで初演、大成功を収めながら、突如オペラの作曲を永遠に辞めると「引退宣言」をしたロッシーニ。しかし、ロッシーニがオペラ作曲家を突然引退したのは、才能が枯渇したからでも病気が原因でもなかった。美食家としての名声があったロッシーニは、フランス国王シャルル10世の即位に際「フランス国王の第一作曲家」の称号と終身年金を得た。この経済的余裕が、ロッシーニを食通且つ食材に贅を尽くす料理家へと変貌させる伏線となる。

 

次に考えられるのは、天才シェフ、アントナン・カレームとの出会いだ。フランス料理を芸術の域に高めたカレームは、大衆食堂の見習いから身を起こしながら、遂に王宮の厨房を任されるほど腕が立つ料理人である。パリの名門、ロスチャイルド家のシェフを任されてからロッシーニとの交流が始まった。分野の異なる天才同士が、美食談義に興じた。カレームは、その著書「19世紀フランス料理技術」でロッシーニ風料理のレシピを紹介し、ロッシーニはカレーヌの料理の真価を各界名士の舌を通じ、世に知らしめたのである。

 

このオペラの魅力は、21歳という若い頃の作らしい、若々しさや瑞々しさといわれるが、ソプラノやテノールにも超絶技巧が求められるために、なかなか上演する機会が少ないのも事実である。しかし、1970年代にフェラーラ版が再発見されてからは「セミラーミデ」と人気を二分するオペラ・セリアとなっている。

 

場所は変わって城壁の近くの広場。貴族と戦士たちが、オルバッツァーノとアメナイーデの婚礼を祝っている(合唱「愛よ、降りてこい」)

その歌声を耳にしたタンクレーディは、恋人に裏切られたと思い込む。堪えられず、身分を隠して騎士の姿で婚礼の列に飛び出したタンクレーディは、国王アルジリオにサラセンと戦う義勇兵に志願を申し出た。タンクレディだと分かっているアメナイーデは苦悶し、結婚式を取りやめるよう懇願する。

 

そこにオルバッツァーノが、アメナイーデの手紙を持って現れる。宛名の無いその手紙は、彼女がタンクレーディに渡すつもりで書いたものだったが、内容が朗読されると皆は彼女がサラセンの将軍ソラミーロと内通したと誤解する。しかも、サラセン軍の近くで捕らえられた奴隷が所持していたので誤解は深まり、アメナイーデがサラセン軍に救いを求めたものと誤解され、捕らわれてしまう。

 

一方、タンクレディも、彼女がソラミールを愛していると誤解してしまった。祖国を裏切ったとみなされたアメナイーデは逮捕され、父から死刑を言い渡される。事の成り行きに一同、戦慄する。

クライマックスへ向かって盛り上げ方が、実にロッシーニらしく、ストーリーは悲劇なのに言葉や歌詞が解らず聴いていると、楽しささえ感じてしまうから不思議だ。

 

僅か20歳にしてオペラ『試金石』を大ヒットさせ、早くも名を挙げたロッシーニ。そして翌年、21歳にして発表したのが、このオペラであった。いかにロッシーニが「早熟の天才」かがわかろうかと言うものだが、意外なことに19年で39作ものオペラを作曲しながら、現代において聞かれるのは『セビリアの理髪師』や『ウィリアム・テル』などの序曲が殆どで、オペラそのものがあまり聞かれることはない。

 

早筆かつ稀代の怠け者のロッシーニが、右から左へという調子で書き散らしていきながら「ロッシーニ旋風」という大ブームを巻き起こしたことに対する、僻みややっかみもあったろうが  「時代とともに色褪せたのは、深みに欠けるせいだ」という声も多く聞かれた。ところが、ここへ来て初期の作である、この『タンクレーディ』や10年後に書かれた『セミラーミデ』といったオペラが見直され、しばしば上演されるようになった。

  

1830年、フランスで7月革命が起きた。シャルル10世が退位する政変の煽りで、ロッシーニの年金が無効となってしまった。ロッシーニは新政府を相手に終身年金を求める裁判を起こし、オペラの筆を折ると文化を重んじるフランス政府に圧力をかけた。裁判が審議される間、稀代の食通として社交界の寵児であるロッシーニは料理の創作に情熱を注ぎ、トリュフとフォアグラを使った様々な料理を考案する。

 

1836年、裁判に勝って終身年金を得たロッシーニは、すでに料理家としての情熱が作曲家としての情熱に勝っていた。44歳で祖国イタリアへ帰国した後は、豚の飼育とトリュフの専門家として活躍し、パリでは会員制レストラン「グルメのための天国」をオープンさせ、第二の人生を歩み始めた。

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