2015/08/21

オノゴロ島


 オノゴロ島は、神話の架空の島とする説と実在するという説とある。伝承が残る地域は近畿地方が中心で、平安前期の古代諸氏族の系譜書である『新撰姓氏録』では、オノゴロ島は沖ノ島など友ヶ島の島々と一説がある。同じく平安前期に書かれた『新撰亀相記』と鎌倉後期成立の『釈日本紀』では、オノゴロ島の説明に沼島を当てており、近世以降の殆どはこの「沼島説」が定説となっていた。  明治時代に発行した地名事典である『大日本地名辞書』でも「オノゴロ島を沼島と為すは至当の説なるべし」と、沼島説を有力に見なしている。江戸中期の国学者、本居宣長は『古事記伝』により、オノゴロ島は淡路島北端にある絵島と見立てており、絵島説は大神貫道の『磤馭盧嶋日記』でも記載がある。

オノゴロ島の候補地は様々な見解があるものの、淡路島周辺の小島であっただろうと考えられている。また、仁徳天皇が詠んだ『古事記 下巻』の歌を参考に、アハ島(阿波志摩)は四国の阿波方面を指すという見方や、アハ島(阿波志摩)は淡島明神(和歌山市加太の淡嶋神社)とする見方など、アハ島についても諸説存在する。

●オノゴロ島伝承の地


沼島は空から見ると勾玉のような神秘的な形をした離島で、淡路島の南海上4.6km先に位置している。1994年(平成6)に、1億年前の「地球のしわ」とされる「鞘型褶曲(さやがたしゅうきょく)」と言う、非常に珍しい岩石が発見された島である。沼島の海岸線には奇岩や岩礁が多く見られ、東南海岸には矛先のような形をした高さ約30mの屹立する巨岩「上立神岩(かみたてがみいわ)」(画像中)が聳え立ち、国生みの舞台を思わせる象徴的な存在となっている。この上立神岩は、神話に登場する「天の御柱」とも言われ、イザナギノミコトとイザナミノミコトの2神が降り立ったと伝わっている。


●紀淡海峡の友ヶ島の沖ノ島
友ヶ島の神島は、淡嶋神社の発祥の地とされている。 元は神島で少彦名命(すくなひこなのみこと)と大己貴命(おほなむじのみこと)を祀っていたところ、仁徳天皇の時代に離島では何かと不自由であろうと、現在の和歌山市加太に遷座した所以である。これらの経緯から、友ヶ島のいずれかがオノゴロ島ではないかと古くから推し測られている。

●淡路市の絵島
絵島は淡路島の岩屋港にある小島で、地質学的に貴重な約2000万年前の砂岩層が露出し、岩肌の縞模様が美しく『山家集』の歌や『平家物語』などにも詠まれ、古来より月見の名所として知られる


近くの岩屋城跡の丘下洞窟には、イザナギノミコトとイザナミノミコト、そして2神の最初の子である蛭子命(ヒルコノミコト)を祀る「岩樟(いわすく)神社」がある。日本神話で蛭子命は負具の子であったため、後に葦舟にのせて流されてしまう神であるが、伝承によるとこの岩屋から蛭児命は流され、えびす宮で有名な西宮神社に辿りつき神体になったと言われている。

●自凝島(おのころじま)神社
淡路島内の小高い丘にある自凝島神社、イザナギノミコトとイザナミノミコトの2神を祭神とし、キクリヒメノミコトが合祀されている。高さ約21mの朱色の大鳥居がシンボル。自凝島神社は現在陸地にあるが、なぜオノゴロ「島」と言われているかについて、数千年前の縄文時代では丘の辺りは海に浮かぶ小島だった、という説に由来している。神社を西側に下ると「天の沼矛」から滴り落ちた塩と伝わる安産のお砂場があり、産宮神社となっている。なお淡路島自体は、国生み神話の節でイザナギノミコトとイザナミノミコトが生んだ島々に含まれている。

●十神山(島根県安来市)
十神というのは伊邪那岐、伊邪那美両神を除いた神世七代の神々を祀ったことによる名称とされている。ここは、かつては十神島という本土から切り離された島であったことが文献学(出雲国風土記)・地質学的に確認されている。また古事記にみえる伊邪那美神が埋葬されたという「伯耆と出雲の堺、比婆山」(比婆山久米神社)」が近くにあることなども根拠とされている。
※Wikipedia引用

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