2015/08/04

天浮橋『古事記傳』

神代二之巻【淤能碁呂嶋の段】 本居宣長訳(一部、編集)
天浮橋は、天と地の間を神々が昇降する道に架かる橋である。空に架かっているので浮き橋と言うのだろう。【和名抄に『魏略五行志に「洛水の浮き橋」とあり、和名「うきはし」』と出ているのは、水の上に浮かぶ橋のことなので、これとは違う。】天忍穂耳(あめのおしほみみ)の命や、番能邇々藝(ほのににぎ)の命が天降った時も、天の浮橋に立ったということが、後の方に見える。この橋について、例の漢文心の半解による賢しらな説がいろいろとあるが、それは取るに足りないので論じない。

丹後の國の風土記には≪口語訳:與謝郡の郡家の東北隅の方に速石の里がある。この里の海には長い崎がある。長さは二千二百二十九丈、幅はあるところでは九丈以下、あるところでは十丈から二十丈、先の方を天橋立と呼び、後ろの方を久志濱と呼ぶ。そう呼ぶのは、国を生んだ伊邪那岐大神が、天に通うために梯子を作って立てたので天梯立と言ったのだが、神が眠っていた時に倒れてしまった。≫とあり、それが事実なら、この橋は元この大神が作ったのだった。これは天に通う橋だから橋立であり、立っていたのが神が寝ている間に倒れ、横たわった形で丹後の海に残っているのである。これは倭の天の香具山、美濃の喪山などの故事のたぐいであって、神代にはこうしたことが大変多い。後人は、儒者の漢意で怪しんではならない。

また播磨國風土記には≪口語訳:賀古郡の益気の里に石橋がある。伝承によると、大昔にはこの橋は天に通じていて、八十人もの人が上下に往来していた。そのため八十橋と呼んだ。≫」とあり、これも天に通じる橋だったらしい。上代には天と地を上り下りする橋が、あちこちにあったのだろう。すると、御孫命が天降りの時に立ったのは、ここに出る浮き橋とは別の浮き橋だったと思われる。この部分を、書紀の一書に「二神立2于天霧之中1曰(フタハシラのカミ、アメノさぎりのナカニたたしてイワク)云々」とあるのは異伝である。

○註に「訓レ立云2多々志1(立つを読んで『たたし』と言う)」。後の方には「天忍穂耳命天浮橋多々志而」とも書いてある。書紀の欽明の巻の歌に「基能倍爾(イ+爾)陀々志(キのベにタタシ)」【「城の上に立つ」ということである。】また推古の巻の歌に「異泥多々須(いでたたす)」【出立である。】など、その他よく使われる古語である。これは「よす」を「よさす」と言うのと同様「たつ」を伸ばして言ったのだ。「行」を「ゆかす」、「取」を「とらす」、「持」を「もたす」、「守(もる)」を「もらす」、「待」を「またす」などのように伸ばすことが多い。一見、尊敬の意味があるようだが、賤しい人に対しても使う。

指下(さしおろし)。かの浮き脂の如く漂う物の中へ指し下ろしたのである。書紀の一書に≪口語訳:伊弉諾と伊弉冉は『この浮き脂のような物の中に、多分国があるのだろう』と話し合って、天瓊矛でかき回して探ったところ、一つの島を探り当てた。これをオノゴロ島と言う。≫」とあるので分かる。

○矛の下の「以」の字は「さしおろして」の「て」に当てて読む。これを字の通りに読むのは、漢文読みである。

許袁呂許袁呂邇(こおろこおろに)は【これを諸本「許々袁々呂々邇」と書くのは、いにしえの書法である。後の大穴牟遅の神の段で鼠が「外者須夫須夫(トはスブスブ)」と言うのも「須々夫々」と書き、また神武紀の「伊莽波豫、伊莽波豫、阿々時夜ヲ(土+烏)。伊莽ダ(イ+襄)而毛、阿誤豫。伊莽ダ(イ+襄)而毛、阿誤豫(今はよ、今はよ。ああしやを。今だにも、吾子(あご)よ、今だにも、吾子よ≪旧仮名遣い≫)(今はもう、今はもう。アアシヤオ。今だけでも、わが兵士たちよ、今だけでも、わが兵士たちよ)」という来目歌を、旧事紀では「伊々莽々波々豫々、阿々時夜ヲ(土+烏)。伊々莽々ダ(イ+襄)々而々毛々阿々誤々豫々」と書いているが、おそらく書紀の古い本にそう書いてあったのを、そのまま写し取ったのだろう。いにしえは、全てそういう風に書いたのである。しかし、それは同じ字の重なる場合に省いて書く、ややくだけた書き方であって、きちんとした書物には、そういう書き方はしない。だから、ここは延佳本に従って正しい書法で書いておく。他もこのように書く。】

例の矛で、かくに従って潮が次第に凝り固まって行くのである。「こおろ」と「凝る」と音も通う。それは下巻の朝倉の宮(雄略天皇)の段で、盃に落ち葉が浮いているのを三重の采女が「美豆多麻宇伎爾、宇岐志阿夫良、淤知那豆佐比、美那許袁呂許袁呂爾(みずたまうきに、うきしあぶら、おちなずさい、みなこおろこおろに)云々≪瑞玉盃に、浮きし脂、落ちなずさい、水こおろこおろに≫」と歌ったのと同様である。これを物にたとえて言えば、脂などを煮固めるのに初めのうちは水のようなのを匙でかき回すと、段々と凝固して行くような感じである。【脂を煮るのはそうであっても、海水をいくらかき回しても凝固することはあるまい、と疑う人もあるだろうが、これは産巣日の神によって国土が創成される最初のことであるから、現在の見慣れた世の中の小さな理屈ではどうにも測り知れるものではない。これは様子が似ているものによって、たとえたまでである。】

畫鳴(かきなし)は、その浮き脂のように漂っているものをかき回して、やや凝固した物に成すのである。鳴(なし)は借字で、成す意味である。書紀では「畫成(かきなす)」、「探成(さぐりなす)」などと書かれている。【それなら直接「成」の字を書けばいいのに、なぜ意味の遠い「鳴」を書いたのか、と思うだろうが、いにしえは特に深く考えず、ただ従来書いてきた字をそのまま踏襲したのである。いにしえには、琴を弾きならすことを「ひきなす」、笛を吹き鳴らすのを「ふきなす」、鼓を打ち鳴らすのを「うちなす」など、すべて鳴らすことを「なす」と言ったので「成す」にこの字を借りたのだ。

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