出典https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/culture/pdf/01_washoku.pdf
日本の食文化は今、大きな変革期にきている。料理をする家庭が減り、食生活の大部分を外部の食産業(外食、中食、通販、ファーストフードなど)に頼る家族が急激に増加している。
若者の間ではバラバラ食いとか、勝手食いとかいった新しい風俗が広がっている。 家庭で作る料理も各国の料理がいりみだれ、味つけや素材など従来にない組み合わせが登場し、食材なども海外に依存するものが多くなった。その一方で、海外では日本料理ブームが続き、ことにスシの愛好者は世界中に広がっているし、日本料理を出すレストランも世界中の大都市には必ずといってよいほど出店している。
たとえばニューヨークなどでは、7~800軒の日本料理屋がマンハッタンに集中しているそうである。こうした変化からうかがえることは、日本の食文化の中で食材、調理法、作り手、食べ手、食事の場所、食事をする人びとの人間関係などが、あらゆる面で変りつつある点である。
しかし、ここで「変化」という内容について考えてみる必要があろう。変化という以上、変化する前の状態が明確であればこそ、何がどのように変化したといえるはずだ。
では変化の基準となる「日本の食文化」とは、どのようなものか。この質問に対して、誰も本来の「日本の食文化とは何か」について、答えられないことに気付くのではないか。誰もが当然のように使っている、日本の食文化の内容ほど曖昧なものはない。
そもそも「食文化」という言葉が、とても新しい言葉なのである。食文化を一つの研究領域として認知されるまで、その開拓と深化を進めてこられた石毛直道氏(国立民族学博物館名誉教授)が食事文化、あるいは食文化という概念を提示されたのは1970年代後半のことであった。それまでの栄養学、調理学、生理学の領域で扱ってきた食を、一挙に食料の生産、獲得より、分配・流通、調理、栄養、食卓食具、調理場、食べ方、食べる場、設営片付け、廃棄、排泄に至るまで、自然科学、さらに歴史、民俗、思想、宗教、法律、経済、社会、文学、美術工芸等々の人間の食をめぐる一切を含む概念として「食文化」という言葉が生まれたのである。
こうした人類学的視点のもとに、日本国内ばかりでなく世界中の諸民族、諸地域の食文化の研究が進められ、今日では食文化が一つの研究領域として確立しつつあるといってよい。では、その中で日本の食文化という時、他の民族、地域を比較していかなる特質があるのか、が考えられなければならない。人類は他の動物と異なる性格を持っている。それは文化を持っている、という点である。
人間以外の(類人猿は少し別だが)動物が持たない文化とは何か。アフリカのサバンナに生息しているライオンを寒冷地へ連れて行ったら生きてはいけない。同様にペンギンを熱帯に移したら、たちまち死んでしまうだろう。つまり動物は自然環境が条件となって生息できる地域が限定されている。ところが人間だけは砂漠であれ熱帯雨林であり、ツンドラ地帯であれ、かなり過酷な自然条件の中でも生活している。それができるのは、環境に適応するためにさまざまの技術や思考を創造してきたからである。
その総体を「文化」と呼んでいる。つまり、人間が環境の中で生み出してきた一切の工夫と創造物、ものの見方-世界観といいかえられる、の総てを文化と考えてよい。 したがって文化とは、それが生まれた自然環境と対応している。食文化も文化の一つである以上、当然その地域の自然環境に最も合致したものであるはずである。日本の食文化は、日本の環境を最もよく映しだす鏡でなければならない。
ところが、日本の食文化を支える食材は、今やその多くが海外から輸入される。天ぷらウドンを食べたら、その食材の中で純国産品は水だけだった、という笑えぬ話が語られてから20年ほども経過した。日本の食糧自給率は、下がる一方である。つまり、日本の食文化が日本の自然環境から遠いものになりつつある。環境には自然の環境だけでなく、歴史的に形成された文化的環境もある。
日本は大陸から大きな影響を受けつつ、日本独自の文化を形成してきた。したがって日本の食文化の背景には、C国やK半島の文化がある。ことに琉球は、C国南方の文化の強い影響を受けて独自の食文化を形成しており、これを日本の食文化に包含すべきが議論があるところだ。同様に民族として別箇の歴史を持つアイヌの食文化も、日本の食文化の範疇を越えている。現代の日本という視点よりすれば、もちろん沖縄も北海道も日本の食文化として広く把えるべきであるが、ここに歴史的環境のズレがある。
日本の食文化が独自の展開をとげた19世紀の明治維新(1868年)までは、北海道の最南部から鹿児島まで、地域ごとにほぼ完結した食文化を営みながら、ほぼ共通した性格をもっていた。国内で遠隔地から運ばれる昆布や塩蔵品など別として、地産地消というのもおこがましいような自給体制の中で食文化を育んできた。ただ、その段階では交渉の少なかった琉球やアイヌの食文化は、殆ど受け入れられていない。むしろ長崎を窓口として、オランダや清朝の食文化が一部の人びとに受け入れられている。
こうして19世紀前半には、今日いうところの「日本料理」の基本的な性格や料理、献立が完成されていた、と見てよい。そこで、幕末までに完成されていた(アイヌと琉球を除いた)食文化を「狭義」の日本食文化と考えておこう。明治維新後、文明開化を通して日本人は積極的に欧米の文化を学び、採り入れた。食文化も例外ではない。かつて奈良時代に遣唐使を派遣して唐の文化を日本に移植したように、留学生やお雇い外国人などを通して急激に欧米の文化が流入した。その中に食文化もあった。
初めは西洋料理として紹介された欧米の食もまもなく日本の食と融合し、いわゆる「和洋折衷」料理が工夫された。その実態は様々で、大部分が日本人の嗜好に合わず消えていったが、中には正に新料理として日本の食の典型となったスキヤキやライスカレー、オムライス、トンカツなどが誕生している。
このような文明開化以降に新しく工夫され、日本人の生活の中に定着した料理、さらに素材、調理法、道具等々を含めた食文化は、広義の「日本食文化」と呼びたい。
その背景には、琉球や北海道も含まれた日本があった。在来野菜の定義として、三代に渡って作り続けられた野菜といういい方があるが、食文化としても三世代を遡って常食されてきたものを、広い意味で日本の食文化に含めることに大方の異論はないと思う。ほぼ昭和30年(1955年)ごろまでに、日本人が常食化していた食べものは「広義」の日本の食文化である。
なぜ、このような回りくどい物言いをするのかといえば、日本の食文化といった時、思い浮かべるイメージは、人によって全くといってよいほど共通項がないからである。イメージはバラバラである。果たして焼き肉は日本の食文化か、キャベツは日本の食材か、議論をし始めたらキリがない。日本人が作った料理は全て日本料理であるという人もいれば、郷土食といわれるものから日本の食文化をイメージする人もいるわけである。
そうした混乱を避けるため、幕末と高度経済成長以前という二つの歴史の画期で枠組みを考えてみようというのが、先の狭義と広義の日本食文化の枠組みという提言である。しかし、この枠組みも決して厳密なものではない。地域により階層により、常食としたものには大きな差があり、あくまで大雑把な線引きである。食文化の中の食事ということに限定すれば、これは「和食」としてわれわれがイメージするものと考えたらよい。
0 件のコメント:
コメントを投稿