2015/08/15

淤能碁呂嶋『古事記傳』

神代二之巻【淤能碁呂嶋の段】
本居宣長訳(一部、編集)
淤能碁呂嶋(おのごろしま)は【「碁」の字は諸本みな「基」と書いているが、この嶋の名は後段にも出ており、下巻高津の宮(仁徳天皇)の段の歌にも「碁」とあるので、そちらを取った。「碁」を清音に読むのは誤りである。書紀でも濁音の「馭」を書いている。また「しま」の「し」は、(仁徳の)歌にも清音の「志」を用いているので清音に読む。】
弘仁私記には「自凝之嶋也。猶3如言2自凝1也(オノズからコレルしまナリ。オノコリとイワンがごとし。)」とある。先述の「こおろこおろに」かき成して、潮の滴りが積もってできたので、こう名付けたということだ。【つまり「許袁呂(こおろ)」を縮めれば「許呂(ころ)」である。

ところで、この島は国土生成の初めなので「地(つち)」という名称は泥(ひじ)が続くことによって出来たため「つづひじ」を縮めていったことによるのだろう。】「自(おの)」という理由は、他の島や国はどれもこの二神が生んだのだが、この島だけはそうでなく自然に出来たからである。そのため、後の文で「ただオノゴロ島だけは、生んだのではない」と書いてある。【この島を御国の元の名と考えて、丈夫島(をのこじま)の意味だと言うのは古語を知らない過ちである。「袁能古(をのこ)」の「を」は音が違う(ワ行の「を」は古くはwoという発音)。「自(おの)」は「淤能(おの)」の音だからよく合う。後世「自」の仮名に「をの」を書くのは誤り。その他、色々説があるが、どれも取るに足りない。】

ところで、この島のありかは高津の宮(仁徳天皇)の段、天皇が淡路島で詠んだ歌に「阿波志摩、淤能碁呂志摩、阿遅摩佐能志麻母美由(淡島、おのごろ島、檳榔の島も見ゆ)云々」とあることからすると、淡路島の近辺にあると思われる。【淡路島のことは、後に書く。】弘仁私記には「今、淡路島の西南の隅にある小島がそうである。国人は今も、その名が残るという」とあるが、口决では「淡路島の西北の隅にある小島だ」と言っている。西北、西南どちらが本当だろうか。【一説に『後世歌に詠まれている淡路の絵島がこれである。書紀の一書に「以2オ(石+殷)馭慮嶋1爲レ胞(オノゴロシマをもちてエとなす)」とあることから出て、元は「胞嶋(えじま)」だった』と言う。また別の人は『淡路の西北の隅にある胞嶋だ。今も胞嶋(えじま)と呼び「おのごろ嶋」という名も残っている。

ところで、その地方には鶺鴒(せきれい)嶋という島もある。磐クス(木+豫)神社というのもある。延喜式の石屋神社がこれである。岩窟の中に二柱の大神と蛭児を合わせて祭っている。その東南の山には、天地大神宮というのがある。国常立尊、伊弉諾尊、伊弉冉尊の三座である。その摂社には八十萬の神々がある』と言う。また荒木田の瓠形(伊勢の神官?)が言うところでは『私は先頃西国へ行った時、おのごろ嶋の付近を通過した。淡路の津名郡の石屋神社の東の小島がそうである』ということだ。 他の説として『淡路と紀伊の国の境、由里の駅の西にある小島だ』と言う人もいるが、これは違うようだ。】

ところで、この嶋がまず生成して固まったのが、大八洲国の生まれる基礎になった。それは二柱の神が国土を生もうと、この島に宮殿を造って共に住み、その宮の柱を廻って見合いしたので、この嶋は国生みの基礎として出来たことになるからである。そのことは、以下に書かれた次第を読んで考える。

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