神代二之巻【美斗能麻具波比の段】本居宣長訳(一部、編集)
○美斗能麻具波比(みとのまぐわい)。【「具」の字を清音に「波」を濁音に読む人があるが、間違いである。卜部兼倶などが、ここの清濁について言っているが、取るに足りぬ妄説だ。】美斗は御所である。所を「と」と読むのは、大斗能遅の神のところ【伝三之巻の四十二葉】で説明した。中でも、夫婦が隠って寝るところを特別に「と」と言ったようだ。後の巻で大穴牟遲神が八上比賣に「美刀阿多波志都(みとあたわしつ)」という「美刀」と同じである。それ【伝十之巻の六十七葉】を参照のこと。また「久美度におこし」という「度」もこれである。【久美度については、次に述べる。ここの「美斗」を久美度と同じことだと言う人もあるが、あまりよく理解しているとは言えない。事実としては同じことなのだが、言葉の源は別である。】
○美斗能麻具波比(みとのまぐわい)。【「具」の字を清音に「波」を濁音に読む人があるが、間違いである。卜部兼倶などが、ここの清濁について言っているが、取るに足りぬ妄説だ。】美斗は御所である。所を「と」と読むのは、大斗能遅の神のところ【伝三之巻の四十二葉】で説明した。中でも、夫婦が隠って寝るところを特別に「と」と言ったようだ。後の巻で大穴牟遲神が八上比賣に「美刀阿多波志都(みとあたわしつ)」という「美刀」と同じである。それ【伝十之巻の六十七葉】を参照のこと。また「久美度におこし」という「度」もこれである。【久美度については、次に述べる。ここの「美斗」を久美度と同じことだと言う人もあるが、あまりよく理解しているとは言えない。事実としては同じことなのだが、言葉の源は別である。】
床(とこ)の「と」、嫁ぐ(とつぐ)の「と」などもこれだろうか。【嫁ぐは所につくことか。この「く」を「ぐ」と濁るのは、黄牛(あめうじ)と同じ例で、下の音を音便で濁ることもある。】戸も、その場所に立てて隔てるものであることから名付けたのかも知れない。麻具波比(まぐわい)の麻(ま)は「うま」である。「う」を省くことは多い。一般に何事でも「うまく」やるのを「うま~」と言うことが多い。書紀の継体の巻に、男女がうまく寝るのを「于魔伊禰(うまいね)」とあるたぐいだ。【「宇麻」の註は初めの段、葦牙比古遅の神のところにある。】具波比は、麻に続くので「ぐ」と濁っているが、いにしえは頭の音を濁ることがなかったから、(麻を切り離せば)「くわい(クハヒ)」であって「くいあい(クヒアヒ)」が縮まった言葉である。【「ヒア」は「ハ」と縮まる。】
一般に、二つのものが一つに合うことを「くいあう」と言う。万葉巻十六に(3821)、尺度(さかど)氏の娘が、美貌の貴人の求婚を受け入れず、(低い身分で)見るからに醜い男に嫁ごうとしたのを聞いて、児部女王(こべのおおきみ)が「美麗物、何所不飽牟、坂門等之、角乃布久禮爾、四具比相爾計六(ウマシもの、イズクあかぬを、サカドらし、ツヌのフクレに、しグイアイにケン)」と歌った「具比相」がそうである。【これも「四」に続いているので「ぐ」と濁っているのは、ここと同様である。】
今の世の言葉で、物を作って合わせるのを「しくわす」と言うのも「しぐいあわす」が縮まったのである。また俗に「具合」が良い悪いと言うのも「くいあい」がいい、悪いということである。【「具合」の頭が「ぐ」と濁っているのは、元は「しぐあい」とか何とか頭に語が付いていたのを後に省いたのだろう。】
また伊勢物語の歌に「世をうみのあまとし人を見るからに、目くはせよと頼まるる哉」【後々の歌にも同様の例がある。】とある。この「目くわす」も「くいあわす」の縮まったもので、向こうとこちらが目を見合わせるのである。これらの例で、意味を知ることができる。【楚辞の九歌(少司命の歌)に「美人忽獨與レ兮目成(びじんタチマチひとりヨとモクセイす)」<(その場には他にも人が多勢いたのに)その美しい人と私の間だけで目配せを交わした>がある。】あの「成り合わざる所」と「成り余れる所」とが「うまくくいあう」ことを「まぐわい」と言ったのである。【俗に嫁ぐことを「一つになる」と言うのも、これと同じような感じだろう。】
他にも、記中で「目合」という語が所々にあるが、これも上記の意味から「まぐわい」と読むべきである。それについて、前記「目くわす」と考え合わせると「麻(ま)」は「目(め)」の意味ででもあろうか。そうとすると「ぐわい」も目を合わせることになって、上述の考えとは語源の解釈で違ってくる。だが「目を合わせる」と言うのは「心を交わす」ということであり、だから「交合」の意味にも使うようになったので、煎じ詰めれば同じことになりそうだ。このことは大穴牟遲命の段「目合(まぐわい)」のところ【伝十之巻、三十五葉】にも述べたので、考え合わせて選択すればよい。
○如レ此云期(かくいいちぎりて)。「云」の字は諸本みな「之」としているが、延佳が「云」の誤りだろうと考察しているのが正しい。【記中「云」と「之」を互いに取り違えている例が多い。】そのため、ここでは訂正して示した。「期」は「ちぎりて」と読む。蜻蛉日記に「かくいひちぎりつれば、思ひかへるべきにもあらず」とある。
○如レ此云期(かくいいちぎりて)。「云」の字は諸本みな「之」としているが、延佳が「云」の誤りだろうと考察しているのが正しい。【記中「云」と「之」を互いに取り違えている例が多い。】そのため、ここでは訂正して示した。「期」は「ちぎりて」と読む。蜻蛉日記に「かくいひちぎりつれば、思ひかへるべきにもあらず」とある。
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