神代二之巻【美斗能麻具波比の段】 本居宣長訳(一部、編集)
○生成(うみなす)は、要するに生むことである。それに「成」と言い添えているのは、竹取物語に「己が成さぬ子なれば、心にも従へず(自分が産んだ子でないから、無理に思う通りにもさせられない)」とあり、うつほ物語の藤原の君の巻に「此の春子一人なしてかくれましにき(この春に子供を一人産んで、薨じてしまった)」とある。これらの例では生むことを「なす」と言っている。今の世でも、継親子のことを「なさぬ仲」と言う。大祓の祝詞に「國中爾成出武天之益人等(クニなかにナリいでんアメのマスひとら)(国に次々に生まれ増えてくる人々が)」というのも「生まれる」ということである。
○註に「訓レ生云2宇牟1(生を読みて「うむ」と云う)」とある。ここの「生」は「うみ」と読むはずなのに「うむ」と書いたのはなぜか、いぶかる人もあるだろう。このように活用する文字を、天之常立の神のところで「訓レ立云2多知(たち)1」、また神集々而について「訓レ集云2都度比(つどい)1」などでは、そこに書いたままの読みを表記している。だが伊都之男建(イツのおたけび)について「訓レ建云2多祁夫(たけぶ)1」とあるのは「たけび」とするところだが、基本形「たけぶ」を示している。この箇所もその一例だ。「以下これにならえ」とあるのだが、この「生」は記中にたくさん出てくる字であり、いろいろな活用形に読むので、最も基本の形で表してあるわけだ。
○「行=迴2逢是天之御柱1而(このあめのみはしらをゆきめぐりあいて)」。どうやら夫婦が性交するに先だって、柱の周りを廻るのは古代の大礼(儀式)だったようである。ここは男女交合の初めであるから、まずこの礼を行ったことには深いわけがありそうだ。【書紀に、この柱を「國中の柱」、「国の柱」などとあるのを想起せよ。国土生成の根源をこの柱に負わせた名だろう。】しかし、そのわけはもう伝わっておらず、われわれ凡人が推量することは出来ない。【とはいえ、あえて解いてみると男女が性交する場合、男は上にいて天のようであり、いわば屋根が家を覆うような状態である。女は下にいて地が万物をその上に乗せているようであり、いわば家の床のようである。柱は、その中間に立っていて上下を固め保持するものなので、夫婦の間を固め保持するということではないだろうか。鶺鴒(せきれい)の一名を「なまびばしら」と言うのも「学び柱」ということで、柱を性交の喩えとして名付けたのではないだろうか。また柱という名前の意味を考えると「はし」という言葉は「間」という意味だろう。「間」を「はし」と言う例は多い。「間人(はしびと)」、万葉の歌(199)に「相競端爾(あらそうハシに)」とあるのも、端は借字であって「間に」という意味である。また「木にもあらず草にもあらぬ竹のよ(節と節の間の中空部)のはしに我が身はならぬべらなり」という歌(古今959)も、竹を木と草の間と言っている。
○註に「訓レ生云2宇牟1(生を読みて「うむ」と云う)」とある。ここの「生」は「うみ」と読むはずなのに「うむ」と書いたのはなぜか、いぶかる人もあるだろう。このように活用する文字を、天之常立の神のところで「訓レ立云2多知(たち)1」、また神集々而について「訓レ集云2都度比(つどい)1」などでは、そこに書いたままの読みを表記している。だが伊都之男建(イツのおたけび)について「訓レ建云2多祁夫(たけぶ)1」とあるのは「たけび」とするところだが、基本形「たけぶ」を示している。この箇所もその一例だ。「以下これにならえ」とあるのだが、この「生」は記中にたくさん出てくる字であり、いろいろな活用形に読むので、最も基本の形で表してあるわけだ。
○「行=迴2逢是天之御柱1而(このあめのみはしらをゆきめぐりあいて)」。どうやら夫婦が性交するに先だって、柱の周りを廻るのは古代の大礼(儀式)だったようである。ここは男女交合の初めであるから、まずこの礼を行ったことには深いわけがありそうだ。【書紀に、この柱を「國中の柱」、「国の柱」などとあるのを想起せよ。国土生成の根源をこの柱に負わせた名だろう。】しかし、そのわけはもう伝わっておらず、われわれ凡人が推量することは出来ない。【とはいえ、あえて解いてみると男女が性交する場合、男は上にいて天のようであり、いわば屋根が家を覆うような状態である。女は下にいて地が万物をその上に乗せているようであり、いわば家の床のようである。柱は、その中間に立っていて上下を固め保持するものなので、夫婦の間を固め保持するということではないだろうか。鶺鴒(せきれい)の一名を「なまびばしら」と言うのも「学び柱」ということで、柱を性交の喩えとして名付けたのではないだろうか。また柱という名前の意味を考えると「はし」という言葉は「間」という意味だろう。「間」を「はし」と言う例は多い。「間人(はしびと)」、万葉の歌(199)に「相競端爾(あらそうハシに)」とあるのも、端は借字であって「間に」という意味である。また「木にもあらず草にもあらぬ竹のよ(節と節の間の中空部)のはしに我が身はならぬべらなり」という歌(古今959)も、竹を木と草の間と言っている。
つまり柱は屋根と床の間に立てるものだからだ。「橋」も同じ意味かと思う。こちらの岸と、あちらの岸の間に渡すものだ。また今の俗言で、妻問いに先立ち言葉を交わすきっかけを作る仲立ちになる者を「はしかけ」と言うのも「橋架け」の意味で、前記の柱の意味にも通じるだろう。事の初めを「端(はし)」と言うのも、ここに出る柱巡りに関係するのではないだろうか。】
さて、このように廻った柱は男女が籠って寝る身屋(むや)【後に母屋(もや:おもや)と言う】の中央の柱だっただろう。それは後世も神の御殿を造る際、その中央に「心(しん)の御柱(みはしら)」というものを立てて、特に斎(いわ)い大切にすることが【そのことについていろいろ説があるのは、後の人々の作った話ではあるが、そのこと自体は】上代からの伝えらしく【心の御柱と呼ぶのは後代のことか。上代からの呼び名であれば心(しん)は中心という意味なので、中央に立っているからそう呼ぶのだろう。これを人の心のことのように言うのは、例の(漢意の)妄言である。】
また今の人の家屋でも、中央の柱を重んじることは【「大黒」という名前は、後世の人が漢籍にある「太極」から言い出した賢しらの言葉ではあるまいか。】その名前こそ信じられないが、これも神代から夫婦の語らいの初めに廻る柱だから、重んじ崇めるという上代からの伝承が残っているのだろう。【上代は貴賤の区別はあっても、神の家と人の家との間に造りの違いはなかった。今の古い宮造りは、古代の人の家の様式である。雄略天皇の御代に、志磯(しき)の大縣主(あがたぬし)の家が、棟に堅魚木を上げて作ってあったことを想起するとよい。後世の心の御柱と大黒柱は、元は同じものだっただろうと思われる。】
すると、ここで二柱の神が周りを廻った柱も、その八尋の殿の中央に立っていた柱だっただろう。【伊勢の神宮の文書で、心の御柱の一つの呼び名を「天之御柱」と言うのは、この故事によるのかも知れない。そうであれば多くの柱の中で、こうして行き廻った柱を特別に「天之御柱」として伝えたのだろう。もっとも、後代の人がこじつけて言っただけかも知れない。ともかく、全くのでたらめではないだろう。】
行廻逢は「ゆきめぐりあい」と読む。もう少し詳しく言うと「行く」と言うのは、左右に分かれて進むのである。「廻る」は、柱の周りを回るのである。「逢い」は進んだ先で遭遇するのである。仏足石の讃歌に「由伎米具利(ゆきめぐり)」、万葉巻十七【三十四 丁】(3985)に「伊由伎米具禮流(いゆきめぐれる)」などの例がある。【「行き」と言うのを、いにしえの歌では発語を置いて「いゆき」と読む場合が多
いので、ここもそう読むべきかとも思われるのだが、それは歌の場合であって地の文でそう言った例はないので、そうは読まない。歌と地の文との違いがあるこ とを、よく考えるべきである。こういうことについて今の人はおよそわきまえがなく、いい加減に読んでいる。】
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