2015/09/30

美斗能麻具波比(2)『古事記傳』

神代二之巻【美斗能麻具波比の段】 本居宣長訳(一部、編集)
自レ右迴逢(みぎりよりめぐりあえ)、自レ左迴逢(ひだりよりめぐりあわん)。「」は、師によると『後代「みぎ」と言うようになったが、古くは「みぎり」と言った。今も遠江などではそう言う』ということだ。亭子院の歌合(伊勢の海)の日記に「かむだちべは、階(はし)のひだりみぎりに、みな分(わかれ)て侍(はべら)ひたまふ」とある。「みぎり」と読む。【ここは「ひだり」の対語として言っているのだから「みぎり」と読むのが至当である。古来そう言ったという証拠はないのだが、ここに挙げた伊勢の文を根拠として師の説に従っておく。今も遠江だけでなく、他の国でも方々にそう言うところがある。】

ところで、ここで右と左を決めたのには何か理由があることだろう。しかし、それについての伝承は残っていないので知ることはできない。【これを漢籍にある陰陽の理をもって説こうとするのは、すべて信じられない。また、これを月日の廻ることに解釈するのも、こじつけである。書紀に「同會一面(顔と顔を合わせた、の意)」とあるのを、纂疏で「東北の方だろう」と述べているのも全く受け入れられない。どの方角から回り始めて、どの方角で出会ったということは伝承されていないので、議論の対象にならない。】

約竟以(ちぎりおえて)。ここの約(ちぎる)は、この前の三つのことを合わせて言う。つまり「此吾身成餘處~然善」、「吾與汝行迴逢云々」、「汝者自右云々」の三つのことである。「ちぎる」は、これからのことについて「こうしよう」と互いに言い固めることである。竟(おえる)は、軽く言い添えただけと見ることもできる。また極め尽くす、という意味に取っても良い。万葉巻十九(4174)に「春裏之楽終者、梅花手折毛致都追遊爾可有(ハルのウチのタノシキおえば、ウメのハナ、タオリもちツツ、アソブにアルべし)」とあるが、この「終」も春の中の楽しいことの極み(最大の楽しみ)を言う。祝詞に「稱辭竟奉(たたえゴトおえタテマツル)」とあるのも、極め尽くしたことを言う。

阿那(あな)は、前述の阿夜訶志古泥神のところでも言った。古語拾遺に「事之甚切皆稱2阿那1(コトのハナハダせつナルニ、みなアナとイウ)」とある。何事であれ、さし当たって痛切に思われることを「阿那云々」と言う。書紀の神武の巻に「大醜、此云2鞅奈瀰爾(正字はイ+爾)句1(大醜、これをを『あなみにく』という)」とある。万葉では「痛(あな)」と書くことが多い。伊勢物語に鬼が出て人を一口に食べてしまった話があるが「阿那夜と云ひけれど、雷鳴さわぎに得聞かざりけり(あなやと言ったが、雷鳴がやかましくて聞こえなかった)」とある。【後代これが転じて「あら」とも言う。】

邇夜志(にやし)は、邇という語に夜志という言葉を添えている。書紀では「憙哉」、「美哉」などと書き、一書に「妍哉」とも書いて「此云2阿那而惠夜1(これを『アナにエヤ』と読む)」としてあるが、神武の巻には「妍哉、此云2鞅奈珥夜1(これを『アナにヤ』と読む)」ともある。【字書に、「憙は悦なり」、または「好なり」と注され「妍は麗なり」、または「美好なり」と注されている。】これらの注で「」という語の意味を知ることができよう。【書紀の「惠夜(えや)」は、この記の「夜志(やし)」と同様の意味である。「惠」を「妍」の字に当てて解釈するのは間違いだ。神武の巻では「惠」の字を省いているのでも分かる。「憙哉」、「美哉」ともに「妍哉」の註に従って、みな「アナにエヤ」と読むべきである。文字を色々に書いてあるのは漢(から)文字上の表記に過ぎず、元の言葉は同じに違いないからだ。ここでは「惠夜」の意味も「阿那」の意味も「哉」の字に含まれているので、憙、美、妍の字こそ「に」という語の意味に相当する。】

夜志は「波斯祁夜斯(はしけやし)」、「縦惠夜師(よしえやし)」の「やし」で、嘆息する「や」に「し」を添えて言っている。【師は「邇(に)」も嘆息の辞と言ったが、それは違うことが上述のことで分かる。】書紀の武烈の巻、継体の巻などの歌に、誰人(たれひと)という語を「タレやしヒト」と歌っている。

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