神代五之巻【三柱貴御子御事依の段】 本居宣長訳(一部、編集)
口語訳:この時、伊邪那岐命は大いに喜んで「私は国土や神々を生んでついにこの上なく貴い三柱の御子を得た。」と言った。そして首に掛けていた玉の緒をゆらゆらと振り動かし、天照大御神に「お前は高天の原を治めよ」と命じ、玉を授けた。この首の玉を御倉板擧之神と呼ぶ。次に月読命に対しては「お前は夜の国を治めよ」と命じた。次に建速須佐之男命に対して「お前は海原を治めよ」と命じた。
大歓喜。この言葉は、記中にしばしばある。【大歓、歓喜ともある。】大は「いたく」 とよむ。その例は万葉巻七【三十七丁】(1370?)に「大莫逝(いたくなゆきそ)」がある。【また巻十一(2400)に「極太(いたく)」ともある。】
「いたく」という言葉は、記中に「いたくさやぎて」というのがある。「痛く」の意味で、万葉にはそのままの表記もある。また「甚」の字もそう読む。また「大」の字を前後関係から「いと」と読むこともある。それも意味は同じだが、語の続き具合でそうするのである。【これを「おおいに」と読むのは漢文読みであって、古語ではない。】
○子(みこ)は、神だけでなく、前に出た島々も含めていう。初めに生んだ淡嶋を「子のうちに入れず」とあったので分かることである。
○生々(うみうみて)は、次々と数多く生んだということである。行々(ゆきゆき)て、恋々(こいこい)て、居々(おりおり)て、のたぐいである。
○於生終は「うみのはてに」と読む。万葉巻九【二十八丁】(1780)に「夕鹽之、満乃登等美爾(ゆうしおの、みちのとどみに)」などと同じ用法である。この他にもこうした用法は数多くある。
○三貴子(みはしらのうずのみこ)は、 書紀の一書に「曰2吾欲1レ生御宙之珍子1(あれアメノシタしらさんウズのミコをウマンとノリたまいて)」とあり、訓注に「珍は『うず』と読む」と書いた 後に、この三貴子の誕生が語られているし、神武の巻にも「珍彦は『うずびこ』と読む」とある。また大殿祭の祝詞に「皇我宇都御子皇御孫之命(スメラわがウ ヅノミコすめみまのミコト)」とあるのも考え合わせて「ミバシラのうずのミコ」と読む。玉編では珍の字に「貴である」との註があり、字の読みとしてもおかしくはない。この「うず」は、師(賀茂真淵)の説で「高く厳(いつく)しいことである」という。【今の世の言葉で、人の容貌を「うず高き」というのもよく合っている。】
他にも万葉巻六【二十五丁】(973)に「天皇朕、宇頭乃御手以(スメラ わがウヅのみてもち)」、またいろいろな祝詞に「宇豆乃幣帛(うづのミテグラ)」などの例がある。【出雲国風土記には、須佐之男命のことを「伊弉奈枳(いざなぎ)の麻奈子(まなご)」と言い、出雲国造の神賀詞にも「日眞名子(ひまなご)」とあるので、貴子は「まなご」とも読めそうだが、やはり前掲の読みが良い。】この部分の調子は万葉巻二【十一丁】(95)の「吾者毛也安見兒得有(われはもや、ヤスミコえたり)」という歌に似ているので、得は「えたり」と 読む。
○御頸珠(みくびのたま)。 いにしえは、男女ともに玉を紐(緒)に通して頭や首、手足、衣服などに飾っていた。火遠理(ほおり)命の装束に御頸タマ(王+與)のことが書かれており、書紀に「素戔嗚尊はその頸に掛けた五百箇(いおつ)の御統(みすまる)の瓊(たま)を以て云々」、また高比賣命の歌に「淤登多那婆多能、宇那賀世流、多麻 能美須麻流(おとたなばたの、うながせる、たまのみすまる)云々」、万葉巻十六【二十七丁】(3875)に「吾宇奈雅流、珠乃七條(わがうなげる、たまの ななつお)云々」などとあるのは、首に掛けたのである。【「うながせる」、「うなげる」は首に掛けたことを言う。】
大神宮式(伊勢大神宮の祝詞?)にも 「頸玉手玉足玉緒(くびタマてタマあしタマのお)云々」という言葉がある。書紀の安閑の巻に、幡媛(はたひめ)が物部尾輿(おこし)の瓔珞(くびたま)を盗んで春日皇后に奉ったという話がある。【当時は頸玉に特に貴重なものがあったと思われる。】頸は「くび」と読む。【師は「みうなたま」と読んだが、やはり「みくびたま」だろう。今の世に、犬猫の首の紐を「くびたま」と言うのは、このいにしえの名が残ったのである。】和名抄に、「頸は頭の茎である」とある。
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