2016/09/01

御徒町とアメ横

 江戸時代、江戸城や将軍の護衛を行う下級武士、つまり騎乗が許可されない武士である御徒(徒士)が多く住んでいたことに由来する。御徒町周辺に於いては、長屋に住み禄(現在の給与)だけでは家計を賄い切れず、内職をし生活していた下級武士を指す。なお、現在は町名としては消滅し、台東区台東、および東上野の一部となっている。また、この地名は城下町であれば、どこにでもある地名でもある。余談であるが、決してオカチメンコが多いからという理由ではない。


 「御徒(おかち)」、「御徒士(おかち)」、「徒侍(かちざむらい)」、「徒組(かちぐみ)」、「歩行衆(かちしゅう)」と呼ばれる幕臣が住んでいたところ、つまり「御徒士」たちの社宅があったのが、現在の御徒町あたりだと言われている。


 下級武士で、徒歩で行列の先導などを務めていたそうです。


アメ横の由来
 上野駅の広小路口出口を出てガード沿いに中央道りを渡ると、そこが「アメ横」である。乾物、日用雑貨、お菓子、食料品、生魚店など沢山の種類のお店が所狭しと並んでいる。年末にここを訪れると、その人の多さには驚くだろう。


 アメ横の始まりは、戦後すぐに闇市(許可を得ないで商売をする市場)が出来、 その後、復員者たちで作った団体が国鉄のガード下を借り受け、希望者に貸し出した。


 錦糸町で、サツマイモのでんぷんで飴をつくっていた業者が店を借りて商売を始めると、砂糖が買えない時代だったので飛ぶ様に売れ、いろいろな種類の飴を売る店が100軒ほども集まり、それ以来「アメ屋横丁」と呼ばれるようになった。


 第二次世界大戦末期のアメリカ軍による東京大空襲で焼け野原と化したこの地(元は下町特有の住宅街)に、アメリカ軍の払い下げ物資を安く売りたたく旧・満州引揚者らの店が多数集まったことから「アメ屋(「アメリカ関連物資の、屋(店)」との含意)」と呼ばれ始めたとする説。


 朝鮮戦争(1950年)ごろから、米兵達が小遣い稼ぎに様々な物資を持ち込んで、アメリカ軍の物資が大量に出回ったため「アメリカ横丁」と呼ばれたという説。こうして「アメ屋横丁」と「アメリカ横丁」が混ざって「アメ横」となったとか。ちなみに「アメ横」の名称は、昭和45年に商標登録された。

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