神代五之巻【三柱貴御子御事依の段】本居宣長訳(一部、編集)
ところで男神も、その国まで追って行き、じかに凶悪に触れ、この世に持ち帰ったので、世の中に凶悪なことが生まれたのである。【天照大御神がしばらく天の石屋に籠もったこと、また後代、世の中が乱れに乱れることがあるのは、この理由による。この男神は物事を次々に成し遂げ、初めと終わりを通じて善神だった。ただその途中で、いささかこの穢れに触れたのは、世の中一般に、どんなに良いことでも、そこに多少の汚らわしいことは混ざってくるのと同じである。】しかし男神は再び現世に戻って、禊ぎをした。【これは凶事から善事に戻ることであり、この世で凶悪を直し善を行うべき人の道は、これによる。】
そのとき、まず禍津日の神が生まれたのは、もっぱらあの黄泉の国の穢れが原因だが【禊ぎというものは凶事から善事に移る際であるから、まずこの神が生まれたのである。この世に凶事や悪事があるのは、すべて黄泉の穢れから生まれた、この神の御心である。】その穢れを祓い清めて直し【正しく直すときに当たって直毘の神が生まれ、それがすっかり直った後になって伊豆能賣の神が生まれた。】
この三柱の貴い御子が生まれて【といっても、須佐之男命はまだ悪神であって、高天の原で荒び多くのことを損なったのは、あの伊邪那岐の大神が始めも終わりも善神だったけれども、一度は悪に触れたからである。】
最後には、天照大御神が高天の原を治められているのは、また全般には善い方向に向いているのであるから【ところが、この大御神さえ須佐之男命の荒びにたえかねて、一時的にせよその善が遮られたことがあるのは、世の中に大乱、大逆もなくてはならないというのが神の理であって、その根源は黄泉の穢れにある。だが大御神の光は最後まで遮られているのでなく、やがては善事に立ち返り、また夜が明けて、とこしえに世を照らす、それと同様に皇孫の命は天下を治め皇統は千万歳の後まで不動となった。】
これこそ、この世のあるべき姿なのだ。【いにしえから現在まで治乱・吉凶が移り変わる、あらゆる経緯は、すべてこうした上代のできごとに関わっているのである。】だからこの成り行きをよく味わって、世の中のことのありさまも吉事から凶事を生み【二柱の神が諸神を生んだ善事によって、女神が世を去った凶事は生まれた。すべてのことは、このようにして、善事から凶事が生まれるものである。】凶事から善事を生み【伊邪那岐命が黄泉の穢れに身を触れたことによって、月の神・日の神が生まれたように、善いことも凶事の中から生まれ出るのだ。】善悪が互いに入れ替わりながら、世が移って行くという当然の理を悟るべきで【人に生死、一日に夜昼、一年に春秋があるのも、この由縁であって、世の中には善事のみでなく凶事もなくてはならないのである。】また凶事はあっても、最終的には善事に勝てないことも知り【女神が一日に千人を殺せば、男神は一日に千五百人を生むというのが、このことだ。後に須佐之男命が荒びて天照大御神が天の石屋に隠れても、やがてはまたこの世に現れて永遠に世を照らし、須佐之男命は高天の原から追い払われたのも、この理によるのである。】
同時に、人が凶事を忌み嫌い、必ず善事を行うべき理由も知るべきである。【伊邪那岐命が黄泉の穢れを嫌って禊ぎをしたのは、そのためである。後に須佐之男命が二度にわたって追いやられたのも、この理由による。ただし世人が凶事を直して善事を成すのは、その禊ぎによることではあるが、大神は、この禊ぎによって世の人に「凶事を去って善事を行え」と教えたのではない。というのは大神自身、ことさらに神の教えによって禊ぎをしたわけではない。実は産巣日の神の御魂によって、自然に黄泉の汚穢を「きたない」と感じたのである。自分自身の感性から行ったのであれば、世人もまた同じように産巣日の神の御魂によって凶事を嫌い、善事を好むように生まれついているはずであって、誰が教えるともなく自然にその判断はできるようになっている。といっても、またその行いには全く善事のみということもなく、自然の成り行きで悪事も混ざっているのは、あの大神が一度は黄泉の国に行って穢れに触れ、また三貴神にも須佐之男命が混じっていたことによるのだ。】
実に奇(くす)しく、霊妙である。実に妙(たえ)に神妙なことである。【およそ世間の古今の出来事も、すべてこの理から外れることはない。】
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