神代五之巻【須佐之男命御啼伊佐知の段】本居宣長訳(一部、編集)
○八尺勾璁(やさかのマガタマ)。八尺という意味は、いろいろ考えたが、まだ思いつかない。なお検討する必要がある。【「賢木(さかき)」の「さか」などは「栄える」の意味なので、これも「彌栄(いやさか)」の意味かと思ってみたが、木であれば生きているものだから「栄える」という言葉がふさわしいとしても、玉などは成長するものでないから、そうは言えないのではないか。また同じような言葉だが、盛んであるという意味で「彌盛(いやさか)」と言ったのかとも考えたが、玉のようなものをそう言った例がなく、やはりどうだろうか。他に、以前私は枕草子にある話で、唐朝がわが国を試そうとあれこれ難題を出した中に、小さいが七曲がりに曲がった玉に、中心に穴があって両端も開いているのだが、その中に紐を通す問題があった。
≪蟻に糸を付け、穴の一方の口に餌を置いて、もう一方からこの穴の中を歩かせたところ、糸は見事に中を通ったという話≫だがこの故事は漢籍にある話で、信憑性はないのだが、そういう形をした玉が実在するからこそ、そんな話も言い伝えられるのだろうから、八尺の勾玉もそういった形状を言うのだろう。つまり八尺とは、複雑に折れ曲がった玉を、まっすぐ引き伸ばした場合の長さを言う。七曲がりに曲がっていたら、実際には何尺もあるだろう、などと言ったことがあるが、改めて思うと、この考えも良くない。また「八坂」で玉を出す地の名だという説、その玉を貫く紐の長さが八尺だとする説、いずれも良くない。】
○勾璁(マガタマ)は、曲がった玉である。細長い玉で、やや曲がった【両端の曲がったところに穴がある。ここに紐を通していたのである。】のが、今も時々、地下から掘り出される。これが、いにしえの勾玉だという人がある。たぶんそうだろう。上代に、そういう風に曲がった玉を特に貴んだために、八尺の勾玉という名があるのだ。
書紀の仲哀の巻に「天皇は八尺瓊(やさかに)の曲がっているように、曲妙(巧妙)に世を治めた」と、曲がった形状の見事さを賞めて、たとえにしている。【この文について、勾玉という名を曲妙(まがたえ)の意味だと言うのは誤っている。「曲」の字にこそそういう意味があるだろうが「まが」という言葉に、そんな意味はない。およそ漢字の意味に引きずられて古言の意味を解しようとすると、必ずこういった間違いがある。ただし単に「妙」と書かず「曲妙」と書いた書紀の撰者の意図は、曲玉の「曲」の字の意味を思ったのだろう。こうしたことは、いにしえの心を知る上で非常に障害となるものだ。いにしえのことを、よく知らない輩は迷うに違いない。一般に書紀には、このように人を惑わす部分が多い。】
ところで書紀には、どこでも「八尺瓊」と書いてある。「瑞(みず)の八尺瓊」という表現もある。【「瑞」は「みずみずしい」という意味である。「瑞」の字に拘泥してはいけない。】垂仁の巻には、狢(むじな)の腹から八尺瓊の勾玉が出たという記事もある。
○五百津(いおつ:旧仮名いほつ)は、単に数が多いのを言う。津は一つ、二つの「つ」である。【百の仮名は「富(ほ)」である。これを「を」と書くのは間違いである。】
○美須麻流は書紀には「御統」と書いて、訓注に「みすまる」と読むとある。纂疏には「糸を通して全部の玉を統括するのである」と書いてある。「統(す)べる」と語が通う。【「しばる」、「しまる」なども元は同言で、訛ったのだろう。谷川氏が言うには「和名抄に昴星を『すばる』というのは、その星の形がこの御統に似ているからではないか。また天門冬という植物を『すまろぐさ』というのも、細かい葉が集まった形が似ているせいか。日本紀竟宴和歌には、御統をも『すばるの玉』と言っている」ということだ。】
記中の高比賣命の歌に「多麻能美須麻流、美須麻流邇(璁のみすまる、みすまるに)」【「に」は瓊である。】万葉巻十【二十六丁】(2012)に「水良玉、五百都集乎、解毛不見(しら璁の、いおつつどいを、ときもみず)」、同巻十八【二十四丁】(4105)に「思良多麻能、伊保都々度比乎、手爾牟須妣(しら璁の、いおつつどいを、てにむすび)」などとあるのも同じものである。「集い」というのもそのまま「統べる」意味だ。
○曾毘良(そびら)は背平(そびら)である。書紀には「背」と書いてある。【今俗に「せなか」と言うのは、少し違っている。「せなか」は「背中」のことで、和名抄で「脊」の字に付けた読みがよく当たっている。】
○千入(ちのり)。書紀では千箭と書いて「千箭は『ちのり』と読む」とある。和名抄に「篦は箭(や)の竹の名で、和名『の』」とある。大神宮式の神宝の料にも「篦二千二百五十株」とある。とすると、千篦入(ちのり)の意味である。「五百入」も、同様に考えるべきである。【これら「入り」の「い」は省く例が多い。】千とか五百とかいうのは、その量を言う。しかし必ず千あるいは五百の矢が入るというのでなく、たくさん入るということである。
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