出典
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kodaishi/nihonshinwaco/izumoootyoco/izumoootyoco.htm
日本書紀の第五の一書が、次のように記している。
一書に曰く、建速須佐之男命尊曰く、『韓郷(からくに)の嶋には、これ金(こがね)銀(しろがね)有り。若使(たとい)吾が児の所御(しら)す国に、浮く宝有らずは、未だ佳(よ)からじ』とのたまいて、すなわと髭髯(ひげ)を抜きて散(あか)つ。
即ち杉に成る。
又、胸の毛を抜き散つ。これ檜に成る。
尻の毛は、これマキに成る。
眉の毛はこり樟(くす)に成る。
すでにしてその用いるべきものを定む。
すなわち称(ことあげ)して曰く、
『杉及び樟、この両(ふたつ)の樹は、以て浮く宝とすべし。檜は以て瑞宮(みつのみや)を為(つく)る材にすべし。
マキは以て顕見(うつしき)蒼(あお)生(くさ)の奥津(おきつ)棄戸(すたへ)に将(も)ち臥さむ具(そなえ)にすべし。
その比ぶべき八十(やそ)木種、皆能(よ)くほどこし生(う)』
とのたまう」。
建速須佐之男命を祀る神社は、全国各地にある。その中でも組織だった神社として氷川神社(ひかわじんじゃ)がある。旧武蔵国(埼玉県、東京都)を中心として神奈川県下に及び、その数は280社を数える。簸川神社と書く神社もあり、これは出雲の「簸川」(ひいかわ、現在は斐伊川)に由来するものと思われる。埼玉県埼玉市大宮区にある氷川神社を総本社とする。
夭邪志国造(むさしのくにみやつこ)に任じられた出雲系の豪族が各地に勧請されて、広大な祭祀(さいし)圏を形成して来たものと推定できる。国造本紀の中に、志賀高穴穂朝(成務天皇)の御世に、出雲臣の祖、名は二井之宇迦諸忍之神狭命の十世孫、兄多毛比命を以って、无邪志国造に定め賜うとある。これによれば、出雲族のエタモヒが第13代成務天皇の時代に、无邪志国造として赴任してきたことになる。
高橋氏文では、第12代景行天皇が安房の浮島にあった行宮に行幸した際、武蔵国造の上祖・大多毛比と知々夫国造の上祖が、共にその地に参り奉仕したと記されている。武蔵の国は広大だったため、大化の改新以前は、无邪志(むさし)、胸刺(む(な)さし)、知々夫(ちちぶ)の3つの地域に分けて、それぞれに国造が置かれた。无邪志の国は、北部の荒川流域を支配する国であり、その中心は、埼玉県の行田周辺の古代埼玉(さきたま)地方や、東松山市周辺の古代比企(ひき)地方だった。この地域には、6世紀になると埼玉古墳群の巨大古墳を築造されていて、有力豪族がいたことを証明している。
氷川信仰は、同じ建速須佐之男命信仰でも祇園信仰とは異なり、自然神である氷川神(ひかわのかみ)と建速須佐之男命が習合したものと思われる。氾濫を起こす暴れ荒川の本支流域に多く分布する。ヤマトタケルの東征経路や、8世紀に出雲族出身の无邪志国造が開拓したと伝えられる地域と一致している。
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