出典http://www.marino.ne.jp/~rendaico/profile.htm
八雲立つ
八岐大蛇を退治して奥出雲を支配し、鉄を手に入れた建速須佐之男命は、原出雲の西部に位置する杵築(きづき)郷と斐伊川一帯に建速須佐之男命系出雲王朝を樹立した。これを仮に「建速須佐之男命系出雲王朝」と命名する。
「建速須佐之男命系出雲王朝」は、東部の「原出雲王朝」に対抗する勢力となり、両王朝鼎立時代を迎える。その形成史が、次のように伝えている。
建速須佐之男命は、ヤマタノオロチを退治した後、櫛名田比売と結ばれ、出雲で生活することになった。新妻を迎える宮を作るべき地として須賀の地を選び、御殿を建て暮らし始めた。古事記は、その須賀の宮を造られた時、その地から「雲立チ騰リキ」と記している。
宮殿を造っている時に、雲が立ち上がったのを見て、建速須佐之男命は次のように歌を詠んだ。
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(ご)みに 八重垣作る その八重垣を」
建速須佐之男命と櫛名田比売は、古代出雲の地に建速須佐之男命王権を確立していった。
建速須佐之男命は、櫛名田比売以外にも豪族の娘との間に次々に子供を生み、血縁一族を増やしていった。この政略結婚政策で、王朝の礎(いしずえ)を創っていった。特に、稲作農耕と鉄器の導入と「八十木種」(やそこだね)を播いて国中に植林し、国土経略事業を押し進めた」
建速須佐之男命は、「蚕、五穀、鉄」の支配を活用し斐伊川出雲に影響力を広げ、建速須佐之男命王権を創始していったことが伝えられている。当然、東域の原出雲王朝と対立することになる。
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(ご)みに 八重垣作る その八重垣を」
は五・七・五・七・七の形式の整った和歌であり、これが和歌の初見とされている。
出雲国風土記では、この建速須佐之男命の命の神詠は、出雲の国引きをしたヤツカミズオミツヌの命の詠んだとされる「出雲(いずも)と号(なず)くる所以は、ヤツカミズオミツヌの命、八雲立つと詔り給いき、故、八雲立つ出雲という」と記している。
これによれば、建速須佐之男命はヤツカミズオミツヌの命が樹立した、東出雲王朝の王権を意識していることになる。
建速須佐之男命王朝の御代、正統王権の証として「三種の神器」が生まれたように思われる。
「やがて、正妻櫛名田比売との息女・須世理姫が大国主の命となるオオナムヂと結婚することになる」
但し、日本書紀は、建速須佐之男命と稲田姫の間に生まれた子として八嶋手の命を記し
「この神の5世の孫は即ち大国主神なり」
と記していると云う。つまり
「正妻櫛名田比売との息女・須世理姫が大国主の命となるオオナムヂと結婚することになる」
との時間差が生まれている。
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