黄河文明が黄河中流域で誕生するのが前5000年頃。黄河文明の前半を仰韶文化(前5000~前3000年頃)と呼ぶ。仰韶は「ぎょうしょう」または「ヤンシャオ」と読み、代表的な遺跡から名前が付けられている。特徴は土器で彩陶と呼ばれる土器した。これはメソポタミア文明の彩陶とよく似ているため、何らかの影響があるとも言われる。土色の土器に赤い模様が描いてあるのが彩陶である。
後半は龍山文化(前2900~前2000年頃)、読み方は「りゅうざん」または「ロンシャン」で黒陶、灰陶という土器が出土する。黒陶が龍山文化の特徴で、名前の通り真っ黒な土器である。轆轤を使い高温で焼き上げたらしい。彩陶に比べて薄手だが固く、高度になっている。この黒陶は特殊目的のために作られたモノで、日常生活で使ったのが灰陶だと推定される。灰陶は黒陶に比べ、気楽に作った感じである。形の面白いものとして三本足の土器があり、これは水などを入れ、この三本足の下で火を焚いて煮炊きしたらしい。
黄河文明とは別に、最近は長江流域に遺跡群が見つかっている。河姆渡(かぼと)遺跡という長江下流の遺跡では、稲作の跡も見つかった。この辺りは気候風土も日本列島に似ており、日本への稲作は案外こんなところから直接伝わったのかもしれない。チャイナ南部から台湾、琉球列島、朝鮮半島南岸、日本列島も含め、太平洋地域には似たような風俗が残っていたりする。
地図を見ているとチャイナ南部は遠いように感じるが、海というのは単に人と人を隔てるだけではなく、重要な交通路でもあった。遣唐使なども朝鮮半島沿いに行けば良さそうに感じるが、案外直接チャイナ南岸に向けて行き来している。上流域には竜馬古城遺跡、三星堆遺跡という巨大な都市の遺跡も発見された。これら長江流域の遺跡と黄河文明との関係は、まだはっきりしていないが、黄河文明とは別の独立した文明として、長江文明という形で教科書に載るかもしれない。
黄河文明が発展していく中で、都市が誕生してくる。チャイナ古代の都市を邑(ゆう)と呼ぶ。邑という字が「口」と「巴」から成る通り、口は人々が住んでいた集落を取り囲む城壁を表し、巴は人が座っている姿を字にしたもの。つまり人が集まって城壁の中で暮らしてのが「邑」であり、この邑が黄河中流域にたくさん出来た。
黄河の下流域は、まだ文明圏に入っていない。黄河は頻繁に大氾濫を起こし、何度も川筋が変わった。下流域は洪水の危険が多過ぎるため、当時の生活技術では人は住めなかったと思われる。かつてNHKが「大黄河」シリーズという番組をやっていて、現在の黄河河口の映像が映っていた。初めて黄河河口を見たら、全面まっ黄色。どこまでが陸で河で、どこから海かまったく区別できない。そんな風景が何キロも続いている。チャイナ大陸というのは、今でも黄河によって運ばれる黄土によって拡大しているという印象を受ける。昔は人が入り込めないような湿地帯が、下流域に拡がっていたのだろう。
黄河文明の担い手たちにとって、洪水といかに戦うかが重要な問題だった。チャイナの伝説の古代の聖王に堯(ぎょう)、舜(しゅん)、禹(う)というのがいる。堯は自分の王位を舜に譲り、舜はその位をやはり治水で頑張った禹に譲ったという話の筋になっている。禹は一年中黄河に浸かって働いたため、下半身が腐ってしまったとも言われる。彩陶に顔が人面の魚が描いてあるが、これが禹ではないかという説もあり、要するに河の神様であった。河の神にしろ、治水で頑張ったにしろ、黄河と切り離して古代チャイナの国家形成は考えられないということであろう。
この三人は血の繋がりもないのに位を譲ったり譲られたりして、みな徳があって立派だということで、のちに儒家という学派に持ち上げられて聖王とされる。自分の血縁を無視し、徳のあるものに位を譲る形式を禅譲と呼び、理想の王位継承パターンとして褒め称えられた。伝説では、禹は自分の子供に王位を譲り最初の王朝が成立した。この王朝が「夏」だが、日本の歴史学会ではこの夏王朝の実在はまだ認められていない。チャイナでは実在したとされる。自国の歴史は、できるだけ古い時代に遡らせたいという気持ちは、どの国の考古学者にもあるようだ。
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