2017/11/15

古代チャイナ文明



http://www.vivonet.co.jp/rekisi/index.html#xad15_inca 引用

黄河文明
 BC5000BC4000年頃から、黄河の中下流の黄土地帯では初期農耕が行われていた。彼らは磨製石斧(ませいせきふ)や彩文土器(彩陶)を使っていた。長江流域でも、BC5000年頃から稲作農耕が行われていた。BC2000年~BC1500年頃になると牛や馬も飼われ、彩陶に比べて薄くて固い土器が作られるようになった。この文明は「黒陶文化」と呼ばれている。チャイナの伝説の王に堯、舜、禹がいる。堯は王位を舜に譲り、舜は治水で頑張った禹に譲った。禹は自分の子供に王位を譲り、最初の王朝夏を開いた。

殷と周
 黄河中下流域には都市国家邑(ゆう)が発達し、多くの邑を支配する王が現れた。最初の王朝は夏で、BC1600年頃に河南省に殷(または商)が登場した。殷の遺跡が殷墟(いんきょ)で王の墓が発掘されている。殷の政治は、占いで神に伺いをたてる神権政治だった。殷王が占いに使ったのは牛の骨や亀の甲羅である。占いの結果は甲羅や骨の裏側に記録され、この文字が漢字の原型甲骨文字である。また殷では、青銅器を用いていた。殷の最後の王が紂王(ちゅうおう)で、妃の妲己(だっき)を寵愛し、彼女に言われるまま怠惰な生活をおくった。庭の池に酒を満たし、木に肉をぶら下げ、池で美女たちとたわむれて遊んだため「酒池肉林」の語源となった。

 周の武王は、弟周公旦や軍師太公望(本名:呂尚 りょしょう)とともに立ち上がり、紂王を牧野の戦いで破って周王朝を開いた(BC1100年頃)。周は諸侯に領土()を与える代わりに、王朝への忠誠をもとめる封建制度を取り入れた。12代目の幽王の妃ホウジは、どんなことがあっても笑顔を見せなかった。幽王は彼女の笑顔見たさに悪行を重ねたため、国は荒れ諸侯は離散した。BC770年、犬戎(匈奴)が都に侵入し、幽王は殺された。太子は東の洛邑(洛陽)へ移り東周となった。

春秋時代
 その後、東周の勢力は衰え、諸侯が争う乱世春秋時代となった。それでも周王室は王として諸侯から尊ばれていた。この時代に活躍した諸侯は、斉の桓公、晉の文公、楚の荘王、呉の夫差、越の勾践で春秋五覇と呼ばれる。太公望を始祖とする斉は、15代目の桓公と宰相管仲により強国となった。南の楚を破り、BC651年に周王に代わって諸侯の盟主(覇者)となった。しかし、管仲の死後、国は乱れ衰退した。第2の覇者は、晋の文公である。文公は後継者争いに巻き込まれ、国外に去った。10数年の放浪の末、BC637年に秦の助けを得て晋公の座に就いた。文公はBC632年に楚を破り、覇者となった。次の覇者は楚の荘王である。荘王は周辺諸国を次々と支配下におき、BC606年、洛邑に迫り周王室に圧力をかけた。さらに鄭の都を包囲し、これを救援に来た晋を破り覇者となった。

呉越の戦い(臥薪嘗胆)    
芭蕉が奥の細道で詠んだ句「象潟や雨に西施がねぶの花」

 長江流域の呉は、闔閭(こうりょ)の時代に孫子を参謀にして力を伸ばした。闔閭は越に侵攻したが、越の将軍范蠡(はんれい)の奇策にはまって総崩れとなった。闔閭は逃げる途中に負傷し、息子の夫差(ふさ)に「必ず仇を取るように」と言い残して亡くなった。夫差はこの恨みを忘れないように薪の上に寝て、その痛みに耐えながら復讐の機会をうかがった(臥薪)。

 呉の国力を回復させた夫差は越に攻め込み、越王勾践(こうせん)を会稽山に追い込んだ。勾践は奴隷となって一命を取りとめた(会稽の恥)。越に戻った勾践は、毎日苦い胆を嘗めて会稽の恥を忘れないようにした(嘗胆)。さらに夫差を骨抜きにするため、多数の美女を送り込んだ。その中に西施(せいし)という絶世の美女がいた。夫差は西施におぼれた。会稽の恥から20年、力をつけた越は呉に攻め入り滅ぼした。越も勾践の死後は衰え、楚に滅ぼされた。

呉越同舟】敵対する者同士が、同じ利害のために協力すること。

臥薪嘗胆】目的達成のために、どんな苦労にも耐えること。

顰に倣う】むやみに人のまねをすること。西施には胸の病があった。彼女が胸元を押さえ、顰(ひそみ:眉間)にしわを寄せた姿はなまめかしく美しかった。この話は国中に広まり、醜い女までが眉をひそめるようになった。

諸子百家
 春秋末期から戦国時代にかけて、多くの思想家が新しい思想を生みだした。これを諸子百家という。

孔子
山東省南部の小国魯の出身。周の礼制を基に儒教としてまとめた。その基本は他人への愛「」で、仁により道徳が保たれると説いた。また、仁の気持ちを形で表現する「」を重んじた。彼の言行録が『論語』。後に「性善説」の孟子や「性悪説」の荀子といった後継者が出てきた。

墨子
全く差別がない博愛主義(兼愛)を説いた。どんな戦争にも反対する絶対平和主義。

老子と荘子
無為自然」を基本とし、人為を嫌う思想。無理をしなければなるようになるという考え。

胡蝶の夢】荘子が夢の中で蝶になり、空を舞って楽しんでいると目が覚める。自分が夢を見て蝶になったのか、蝶が夢を見て自分になっているのか、どちらか分からないという話。

孫子
戦争に勝つための戦術や戦争論、政治論を説いた。

戦国時代
 BC403年、晋は魏、韓、趙に滅ぼされ戦国時代に入った。戦国時代になると、周王室の権威は落ち、有力諸侯が王を名乗る弱肉強食の時代になった。戦国時代の有力な国は、斉、楚、秦、燕、韓、魏、趙の7国で戦国の7と呼ばれた。その中で、西の秦と東の斉が有力だった。秦は商鞅による政治改革により強国となり、周辺諸国を圧迫した。斉も燕や宋を併合するなど勢力を伸ばした。その後、秦は諸国に攻め込み、BC221年、最後の斉を滅ぼして秦を建国した。戦国時代は終った。

太公望】釣り好きな人。 呂尚は80才になるまで、釣りをしながら時を待った。そこに文王が現れ「祖父の太公が待ち望んでいた人物である」と言って召し抱えた。

覆水盆に返らず】太公望は貧しく、妻に逃げられた。その後、太公望は殷を滅ぼした功により、斉に封じられた。そこに赴任する道中に、別れた妻が現れ復縁をせまった。太公望は、盆に入れた水をひっくり返して言った。「別れた夫婦は、この水のように戻すことはできない」。

鼎の軽重を問う】相手の価値や実力を確かめること。楚の荘王は周の王位を奪おうと洛邑に押し寄せ、周の使者に「王位の象徴である鼎とはどんなものか、その重さは?」と訊ねた。つまり、暗に鼎は自分が持つべきと匂わせた。使者は「鼎は徳のあるところにある。周王の徳は衰えておらず、未だに周にある。鼎の軽重は問題ではない」と答えた。荘王は納得して引き上げた。

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