少々前置きが長くなりましたが、こんなことを言わなくてはならないくらい、このパルメニデスの思想というのは、私たちにとって「奇異」に映るものなのです。
まず、今注意したことですが「ある」という言葉がパルメニデスにとって、どういう言葉であったかをはっきりさせておかなくてはなりません。彼の時代には、この「ある」という言葉が「存在」と「言葉の結び付け」という二つの機能をもつ、などという分別的考え方は当然ありません。こんなことに気付いて整理がなされるのは、先にも言った通り後代のことですから。そしてパルメニデスにとって「ある」というのは「存在」の方でした。これは、ある意味当然で「結び付けの言葉」も、たとえば「本は白い」という意味での「本は白くある」というのも「本は白いものとして“ある=存在する”」と捕らえられるからです。こうして、まず「ある」という動詞は「存在」を意味するとされました。
次に「なる」という言葉ですが、これは当然「××であったものから○○になった」と言う具合に捕らえられます。ところが、これは「××である」ものが「そうで“ない”もの(この場合○○)になった」というに他なりません。さて、先の同意によると「ある」というのは存在でした。しかるに、この場合、この「存在」に「ない」という言葉がくっついたことになります。こんなことがあってたまるか、とパルメニデスは言ってくるのです。「存在」は「存在」なのであって、それに非存在を意味する「ない」などという言葉がくっつくわけがない、というのです。
ということになりますと、一切の「なる」ということはあり得ないことになってしまいます。パルメニデスの主張していることは殆どこれに尽きますが、ガスリーの言うように、一見まるで無意味な言葉の遊びみたいに見えます。しかし、ここには「ある」という事態をとことん理屈で追い込んでいく「理性」の営みがあるのです。ここには、物事を徹底的に抽象的に捕らえる態度があり、そして外界の経験的事実が何を示しているか、などということには全く無頓着に、ただ理屈だけの世界に閉じこもって考察していこうという、恐るべき徹底した態度があるのです。そして、現代人が物事を抽象的に捕らえ、思考の上ではどういう結論になるのかを考えられるようになったのは、実はこうしたパルメニデスたちの仕事のおかげなのでした。
もっとも、これもガスリーが触れていることですが、こうして始められた抽象的な思考がヨーロッパを誤らせる原因となった、と皮肉に評価する人もおりますが、ともかく善かれ悪しかれ、こうしたヨーロッパの学問に特徴的な、事実にのみとどまるのではなく、それを越えた「抽象概念(この場合は具体的な存在事物ではなく、そこから抽象された「ある」という抽象概念)」を思考するようになった最初の事例を、ここに見ることができるのです。
こうして、パルメニデスの言ってくることは全く論理的で、その通りといわざるを得ない結果となってきます。すなわち、「なる」ということは「変化・運動」ですから、まずこれが否定されてきます。なぜなら、変化や運動があるためには「“ある”もの」が「“あらぬ”もの」になったり「“あらぬ”ところ」に行くのでなければなりませんが「ある」に「あらぬ」をくっつけることなどできないのだから、こんなことは不可能だというわけです。
一方、運動はもう一つ別の理由からもあり得ない、とされました。それは「空間の否定」と言われているものが根拠にされるのですが、つまり運動の起きる空間というのは「何もない空虚」という意味でなければなりません。なぜなら何かがあったのでは、ぶつかって動けません。しかし、それを認めることは「ない」が「ある」ということを認めるということであって、そんなことはできるわけがないとなります。そうなると、つまり空間は「すべて詰まっている」筈なのであって、運動のおき得る「空間」なんてある筈がないということになります。ということは「隙間」もないということに他なりませんから、宇宙は全く一つなるものの充実体で、永遠にして不動、全く「動き」というもののない「完全なる静止の世界」ということにならざるを得ません。
では、この「運動・変化してやまないこの世界」はどう理解するつもりなのだ、と文句をつけたくなりますが、パルメニデスは「それは幻想だ」とあっけなく切り捨てます。だからといって、パルメニデスはじっと家に籠りつづけ、息もしないでいた、というわけのものではないでしょう。パルメニデスの主張したかったことは、常識を優先させ、常識に合わせようと物事を考えるのではなく、むしろ物事は物事として何を示してくるか、ということを「論理的」に考えてみて、その論理を元に物事を改めて考えてみるべきだ、ということだったでしょう。
実際、この論理というのは常識を越えて世界なり物事のありようということを考えさせていくことになるのです。その実例をパルメニデスの愛弟子のゼノンによって提示された問題で考えて見ましょう。それは全く「常識」には合いません。しかし、その言ってくることを論駁するのは至難の技です。私たちは、その難問を示されて改めてこの世界のありよう、空間とは何なのか、時間とは何なのかを考えて行かざるをえなくなるのです。この難問を簡略に示すことで、パルメニデスたちの思考のありようを考えて見ましょう。
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