2017/11/05

クセノファネス「すべては一つである」



http://www.ozawa-katsuhiko.com/14shinwa/shinwa.html引用

 彼は西方イオニア地方のコロポンの出身ですが、ピュタゴラス同様、東方イタリア地方に逃れ、そこで活動した人でした。古代から、彼はパルメニデスの先生などといわれていますが、むしろ孤高の人で、特別な師や弟子はいないと考えた方が当たっているようです。ただ、思想的にパルメニデス的なところもあるということで、このことは或る意味で重要なことではありました。その重要性というのは「唯一神」を言い出した、というところにあるのですが、彼はホメロス的な、たくさん神々がいて互いに争ったり騙したり大騒ぎするような神を排撃して、唯一にして至高なるものとしての神を主張したのでした。

クセノファネスといえば、このホメロス批判が有名であって、ホメロスの叙事詩に描かれる「人間的」な神々のありかたを批判して「もし牛や馬やライオンが神の姿を描いたとしたら、馬は馬に牛は牛の姿で神を描くだろう」などと言っています。この神は「唯一」ではあっても、キリスト教的な意味での唯一神ではなく、むしろミレトス学派的なものです。つまり、ミレトス学派にあっては「」や「ト・アペイロン」、「アエール」が、そのものとして「神」でした。クセノファネスにとっても、この神は「宇宙そのもの」なのです。「一つなる宇宙が神」であり、神は「全体として見、全体として考え、全体として聞く」ものでした。

要するに、この存在世界は色々生成したり消滅したりするように見えるけれど、本当の意味でそんなものはなく、全ては永遠で全て神の現れだということなのです。実はミレトス学派の場合でもそうなる筈なのであって、そのことは先に指摘しておきました。つまり、彼らのいう「」というのはホメロスの叙事詩にある「人間的な神」ではなく「宇宙生命・宇宙摂理」のようなものとなっていると指摘しておいたことです。クセノファネスは、それを明確にしてきたという意味があると言えます。

それと同時に、これは「存在」ということを論理で推し進めていった時の見解とも言え、その「論理だけの世界」を主張したパルメニデスと一脈通じてしまい、それゆえにパルメニデスの先生とされていったのでしょう。こうした先駆者との関わりでパルメニデスは問題にされてくるのですが、パルメニデスは「全ては一つにして不動」として「運動や多を否定」したことで良く知られています。

しかし神についてならいざ知らず、この世界そのものが不動であって、運動もなく多ということもないと言われたのでは、これは私たちとしてはキョトンとするのが普通です。なぜなら、ほんの少しでも目を明けてみれば「世界は色々で、全て動いている」のが目に飛び込んでくるからです。これはパルメニデスにとっても、同様であったでしょう。それにもかかわらず、どうして「世界は一つで、運動なんかない」などと、とんでもないことを言い出したのでしょうか。しかも、彼は思想界に一大革命をもたらした人として、ソクラテス以前の自然学者の中でも最大級の人として評価されているのです。

一見バカバカしいと思える彼の思想が、なぜそんなに評価されるのでしょうか。まず、今注意したことですが「ある」という言葉が、パルメニデスにとってどういう言葉であったか、はっきりさせておかなくてはなりません。彼の時代には、この「ある」という言葉が「存在」と「言葉の結び付け」という二つの機能をもつ、などという分別的考え方は当然ありません。こんなことに気付いて整理がなされるのは、もっと後代のことです。そして、パルメニデスにとって「ある」というのは「存在」の方でした。

これは、ある意味当然で「結び付けの言葉」も、たとえば「本は白い」という意味での「本は白くある」というのも「本は白いものとして“ある=存在する”」と捕らえられるからです。こうして、まず「ある」という動詞は「存在」を意味するとされました。そして次に「なる」という言葉ですが、これは当然、「××であったものから○○になった」と言う具合に捕らえられます。ところが、これは「××である」ものが「そうで“ない”もの(この場合○○)になった」というに他なりません。

 さて、先の同意によると「ある」というのは存在でした。しかるに、この場合、この「存在」に「ない」という言葉がくっついたことになります。こんなことがあってたまるか、とパルメニデスは言ってくるのです。「存在」は「存在」なのであって、それに非存在を意味する「ない」などという言葉がくっつくわけがない、というのです。ということになりますと、一切の「なる」ということは、あり得ないことになってしまいます。

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