2018/10/30
第二次シケリア戦争
2018/10/27
原始仏教(釈迦の思想7)
2018/10/26
高岡の宮の巻【綏靖天皇】
神沼河耳命。坐2葛城高岡宮1。治2天下1也。此天皇。娶2師木縣主之祖河俣毘賣1。生2御子1。師木津日子玉手見命。<一柱>天皇御年肆拾伍歳。御陵在2衝田岡1也。
訓読:カムヌナカワミミのミコト、カヅラキのタカオカのミヤにましまして、アメノシタしろしめしき。このスメラミコト、シキのアガタヌシのおやカワマタビメをめして、ウミませるミコ、シキツヒコタマデミのミコト。<ひとばしら>スメラミコトみとしヨソヂマリイツツ。ミハカはツキダのおかにあり。
口語訳:神沼河耳命は葛城の高岡の宮に住んで、天下を治めた。この天皇が師木縣主の先祖、河俣毘賣を娶って生んだ子が師木津日子玉手見命<一柱>。天皇は四十五歳で崩じた。御陵は衝田の岡にある。
この天皇は、後の漢風諡号では綏靖天皇という。
○葛城(かづらき)は書紀の神武の巻に「また高尾張の邑に土蜘蛛がいた。その身長は低く、手足が長かった。侏儒(こびと)の類である。皇軍は葛の網を作って掩いかぶせ、土蜘蛛を殺した。そこでその邑の名を改めて葛城と言った。【また劔根(つるぎね)」という者を葛城の国造とした】」と見え、高津の宮(仁徳天皇)の段の歌に「迦豆良紀多迦美夜(かづらきたかみや)」とあり、書紀の推古の巻に「葛城の縣」、天武の巻に「葛城下の縣」など見える。
和名抄に、「大和国葛上郡は『かづらきのかみ』、葛下郡は『かづらきのしも』」とある。「高岡」。この名は他の書に見えたことがない。【大和志にこの宮の址が葛上郡の森脇村にあると書いてあるが、例によって信じられない。】高宮というのは、あるいはこの宮の址で、「丘」を省いて言うのか、または別なのか分からない。書紀には「葛城に都を作った。これを高丘の宮という」とある。<訳者註:現在御所市大字森脇に高丘宮址の碑が建てられている>
2018/10/19
綏靖天皇(2)
日本書紀
神渟名川耳天皇(=綏靖天皇)は、神日本磐余彥天皇(=神武天皇)の第三子です。母は媛蹈韛五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメカミ)といいます。事代主神(コトシロヌシカミ)の大女(エムスメ=長女)です。
天皇は姿がかわいらしく、幼少の頃から雄々しい性格でした。壮(オトコザカリ)になり容貌(カタチ)が魁(スグ=柄杓の大きいところ=大きくて立派)れて偉(タタハ=充実してはちきれそうに)しくなりました。武芸も優れて、志は高い天皇でした。
48歳になり、神日本磐余彥天皇(カムヤマトイワレヒコスメラミコト)は崩(カムアガリ=神になり天に上がる=死ぬ)しました。そこで神渟名川耳天皇(カムヌナカワミミノミコト)は孝性(オヤニシタガウヒトトナリ)は素直で深く、(親の死を)悲しみ偲(シノ)び、喪葬(ミハブリ)の儀式に取り組みました。
兄の手硏耳命(タギシノミミノミコト)は、大人になってから長く朝機(ミカドマツリゴト)に携わっていました。その王はシッカリものでしたが、仁義(ウツクシビコトワリ)に背いていました。ついに諒闇(ミモノオモイ=天子が喪に服す期間のこと)のときに調子に乗り、禍心(マガノココロ)を隠して、二人の弟を殺そうと計画しました。
その時、太歳庚辰です。
冬11月。
神渟名川耳尊(カミヌナカワミミノミコト)は、兄の神八井耳命(カムヤイミミノミコト)と密かに、その殺害計画を知り、どうにか防ぐことにしました。山陵(ミササギ)の儀式(=神武天皇の葬儀)のときになり、弓部稚彥(ユゲノワカヒコ)に弓を作らせました。倭鍛部天津眞浦(ヤマトノカヌチアマツマラ)に、眞麛鏃(マカゴノヤサキ=鹿の矢じり)を作らせました。矢部(ヤハギベ)に矢を作らせました。弓矢が出来て神渟名川耳尊(カミヌナカワミミノミコト)は、手硏耳命(タギシミミノミコト)を射殺そうと思いました。たまたま手硏耳命(タギシミミノミコト)が片丘(カタオカ=奈良県北葛城郡王寺町・志都美村・上牧村の辺り)の小屋の中で、一人で大きな寝床にいました。
その時、渟名川耳尊(ヌナカワミミノミコト)は神八井耳命(カムヤイミミノミコト)に語りました。
「今がチャンスだ。
言葉は控えて。
行動は静かに。
わたしの陰謀(シノビハカリゴト)には、誰も助けてくれる人はいません。今日の事はただ、私とあなたが自発的に行動するだけです。わたしが小屋の扉を開けるので、あなたが射って殺してください」
二人は協力して小屋に入りました。神渟名川耳尊(カムヌナカワミミノミコト)は、扉を突いて開きました。神八井耳命(カムヤイミミノミコト)は手足が戦慄(フルイオノノキ)して、矢を射ることが出来ませんでした。神渟名川耳尊(カムヌナカワミミノミコト)は、その兄の持っていた弓矢を引き抜いて取り、手硏耳命(タギシノミミノミコト)を射ました。一発で胸に当たりました。もう一発射つと背中に当たり、ついに殺しました。
これで神八井耳命(カムヤイミミノミコト)は自分の非(=射ち殺せなかった事)を恥ずかしく想い、神渟名川耳尊(カムヌナカワミミノミコト)に皇位を譲って言いました。
「私は兄ではあるが、未熟で弱く、不能致果(イシキナ=良い結果は出ない)いだろう。今、あなた(=ヌナカワミミ)は優れて神武(アヤシクタケシ)がある。私は悪い所がある。あなたが天位(タカミクラ=皇位)について、皇祖(ミオヤ)の業(ツギテ=継ぐこと=天皇の仕事)を受けるのはもっともなことだ。わたしはあなたの助けとなって、神祇(アマツヤシロクニヤツシロ)を司り祀りましょう」
神八井耳命(カムヤイミミノミコト)は、多臣(オオオミ=大和国十市飫富郷…現在の奈良県磯城郡城田原本町多の氏族)の始祖です。
綏靖天皇が即位した元年の春1月8日。
神渟名川耳尊(カムヌナカワミミノミコト)は、皇位を継ぎました。葛城に都を作りました。それが高丘宮(タカオカノミヤ)といいます。皇后(=神武天皇の皇后の媛蹈韛五十鈴媛命のこと)を尊び、皇太后(オオキサキ)と呼ぶようになりました。この年は太歲庚辰です。
即位2年の春1月に、五十鈴依媛(イスズヨリヒメ)を皇后としました。
ある書によると、磯城縣主(シキノアガタヌシ)の娘の川派媛(カワマタヒメ)とも言われます。
またある書によると、春日縣主大日諸(カスガノアガタヌシノオオヒモロ)の娘の絲織媛(イトリヒメ)とも言われます。
五十鈴依媛(イスズヨリヒメ)は、綏靖天皇から見ると姨(ミオバ=叔母)になります。后(キサキ)は磯城津彥玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト)を生みました。
即位四年の夏四月に神八井耳命(カムヤイミミノミコト…綏靖天皇の兄)が崩(カムアガリ=神になって天に昇る…死ぬこと)となりました。畝傍山(ウネビヤマ)の北に葬りました。
即位25年の春1月の7日。
皇子の磯城津彥玉手看尊(シキツヒコタマテミノミコト)を皇太子(ヒツギノミコ=次の天皇候補)にしました。
即位33年の夏5月に、天皇は不豫(コトヤマヒ…病気)になりました。崩御されました。そのとき84歳でした。