2018/10/30

第二次シケリア戦争

共和政による効果的な政策の結果、紀元前410年までにはカルタゴは回復を遂げていた。再び現在のチュニジア一帯を支配し、北アフリカ沿岸に新たな植民都市を建設した。また、サハラ砂漠を横断したマーゴ・バルカの旅行や、アフリカ大陸沿岸を巡る航海者ハンノの旅行を後援している。版図を拡大するための遠征は、モロッコからセネガル、大西洋にまで及んでいた。しかし同じ年、金や銀の主要産地であったイベリア半島の植民都市がカルタゴから分離し、その供給が断たれた。

ハミルカルの長男ハンニバル・マーゴは、シチリア島の再領有に向けて準備を始めた。紀元前409年、ハンニバルはシチリア島への遠征を行い(第二次ヒメラの戦い)、現在のセリヌンテにあたるセリヌスやヒメラ(現在のテルミニ・イメレーゼの東12キロメートル)といった小都市の占領に成功して帰還した。

しかし、敵対するシラクサはまだ健在であったため、紀元前405年、ハンニバルはシチリア島全域の支配を目指して、二回目の遠征を開始した。遠征は、頑強な抵抗と不運に見舞われた。アクラガス包囲戦の最中、カルタゴ軍に疫病が蔓延し、ハンニバルもそれにより亡くなってしまった。 彼の後任として軍を指揮したヒメルコは、ギリシア軍の包囲を打ち破り、ゲラを占領した(ゲラの戦い)。さらに、シラクサの新たな僭主ディオニュシオス1世の軍もカマリーナで破ったが(カマリナ略奪)、ヒメルコもまた疫病にかかり、講和を結ばざるを得なくなった。

紀元前398年、力をつけたディオニュシオスは、平和協定を破りカルタゴの要塞モティアを攻撃した(モティア包囲戦)。ヒメルコはただちに遠征軍を率いてモティアを奪回し、逆にメッセネ(メッシーナ)を占領した(メッセネの戦い)。紀元前397年には、第一次シュラクサイ包囲戦にまで至るが、翌年、再び疫病に見舞われ、ヒメルコの軍は崩壊した。

シチリア島はカルタゴにとっての生命線であり、カルタゴは固執しつづけた。以後60年以上にわたり、この島でカルタゴとギリシアの小競り合いが続くこととなる。紀元前340年、カルタゴの領土は島の南西の隅に追いやられ、依然として不穏な情勢にあった。
出典 Wikipedia

2018/10/27

原始仏教(釈迦の思想7)

出典 http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/bukkyou1.htm#ch2

7. 実践・努力--自力主義
 ブッダの教えは「真理を悟ること」による安らぎを究極の目的としている。そのために智慧が重視され追求される。しかし、それは単に知識を獲得すればよいということではない。知識があるだけでは聖者といわれない。

 「世の中で、善き人々は、見識、ヴェーダの学識、智慧があるからといって、(誰かを)聖者であるとはいわない。(欲望を)制し、悩みなく、無欲となった人を、わたしは聖者という。」(Sn.1078.)

 悟りは宗教的な体験である。それは真理を「理解すること」ではあっても、「分別によって概念的に理解すること」ではない。

「内的にも、外的にも、いかなることがらをも知りぬけ。しかし、それによって慢心を起こしてはならない。それが安らぎであるとは真理に達した人々は説かないからである。」(Sn.917.)

  智慧は分別による知ではない。体験されるべきものである。教えにそった行いを通じて、安らぎという理想の体験に向かって努力することが求められる。

「その理法を知って、よく気をつけて行い、世間の執着を乗り越えよ」(Sn.1053.)

「熱心に努力せよ。思慮深く、思念をこらして、わたしのことばを聞き、自分の安らぎを目指して訓練せよ。」(Sn.1062.)

 ブッダの基本姿勢は自力主義である。

 「他人が解脱させてくれるのではない。」(Sn.773.)

 世俗の生活を離れ、みずから安らぎを求めて努力することが理想とされる。

「この世のものはかならずなくなるものであると見て、在家にとどまっていてはならない。」(Sn.805.)

8. 実践のための徳目ーー無執着
安らぎへいたる正しい生活を送るために、どのような心をもち、どのように行動すべきかが具体的に説かれる。たとえば、名声・財産・食物・衣服・異性などに対する禁欲、あるいは嘘・怠惰・怒り・後悔など心を汚す行いを避けることなどであるが、これらを集約するものとして強調されるのが「執着するな」ということである。

執着は苦しみの主要な原因と考えられた。

「世の中の種々さまざまな苦しみは、執着を縁として生ずる。」(Sn.1050.)

「無知なまま、執着する人は、愚か者で、くりかえし苦しむ。苦しみの生起のもとを観察した智慧ある人は、執着してはならない。」(Sn.1051.)

執着とは「わがもの」という観念をもち、それにこだわることである。したがって、どんなものについても「わがもの」という観念をもつことが否定される。

「(何かを)わがものであると執着して動揺している人々を見よ。(かれらのありさまは)ひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである。」(Sn.777.)

「世間における何ものをも、わがものであるとみなして固執してはならない。」(Sn.922.)

「何であれ、「これはわがもの。これはひとのもの」と思わない人は、わがものという観念を知らない。このような人は、「自分にはない」といって悲しむことがない。」(Sn.951.)

「無所有、無執着。それが(老いと死という激流に対して避難所となる)洲にほかならない。それを安らぎと呼ぶ。それは老いと死の消滅である。」 (Sn.1094.)

9. 論争を避けること
執着してはならないということは、自分の見解・信条についても求められる。

「自分の見解に対する執着を超越することは容易ではない。」(Sn.785.)

理想として追求されるべき安らぎについてすら、こだわってはならないとされる。

「一切の戒律や誓いを捨て、(世間の)罪のある、あるいは罪のない行為を捨てて「清浄である」とか「不浄である」とかいって欲求を起こすこともなく、それらにとらわれずに行え。----(目指すべきものとされる)安らぎに固執することもなく。」(Sn.900.)

したがって、自説にこだわり論争することは避けよ、と説かれる。これについては、当時のインドの思想状況とかかわりがある。

どのようにすれば、この世の苦しみから解放されるか。この問題意識は、ブッダと同時代のインドの思想家たちに共有されていた。ブッダの他にも多くの思想家が教理を立てた。さまざまな説が唱えられ、その違いから活発な論争が行われた。

「ある人々が、真実だ、正しいということを、他の人々はうそだ、間違いだと争って議論する。なぜ修行者たちは同じことを説かないのか。」(Sn.883.)

論争では、安らぎを得るための智慧の追求が、論敵に勝つための理論の追求に変わる。しかも、日常経験の範囲を越えた形而上学的な問題が扱われる。それらは経験によって確かめられない。肯定・否定の両論がならびたち、決着はつかない。

「世の中に多くのさまざまな永遠の真理があるわけではない。ただ想像して立てられているだけである。独断的な見解にもとづいて推論を立て、これが真理だ、間違いだと両極端の教えを説いているのである。」(Sn.886.)

 論争は、論争のための論争に陥る。ブッダはこれを無用と考えた。論争を避けることは随所に説かれる。

「自説にこだわり、これこそ真理だと論争する人々はみな、非難をうけるか、あるいは、時には賞賛をうることもある。くだらないことである。心の平静のためになることではない。論争の報酬は(非難と賞賛の)二つだけである。これを見きわめ、論争を避けよ。心の平安をめざすとは、論争しない境地に立つことである。」(Sn.895,896, cf. Sn.824-834837847878894.)

あらゆる立場への無執着が強調され、極端説だけでなく、中間にもとらわれないことが説かれる。

「知者は両極端を知りつくし、中間にもけがされない。そのような人をわたしは、偉大な人という。そのような人はこの世で、縫いつけるもの(妄執)を超越している。」(Sn.1042.)

10. 安らぎ(涅槃、彼岸)
この世の苦しみを脱して到達される安らぎは「涅槃」といわれる。仏教の究極の目的である。涅槃は、nibbāna (Sk. nirvāa)の音訳である。nibbānaは「消滅」を意味し、欲望を火にたとえて、涅槃は火の吹き消された状態として表現される(Sn.1074.)。また、欲望が激流にたとえられ、涅槃はそれを越え渡ったところであるから、「彼岸(pāram)ともいわれる。『スッタニパータ』第 5章は「彼岸にいたる道の章(pārāyanavagga)」と名づけられている。

涅槃は、後には死と結びつけられるが、はじめは現世において得られるものとされていた。

「この世において、見たり聞いたり考えたり意識したりする形うるわしいものに対する欲望やむさぼりを除き去れば、不滅の安らぎの境地である。」 (Sn.1086.)

2018/10/26

高岡の宮の巻【綏靖天皇】

神沼河耳命。坐2葛城高岡宮1。治2天下1也。此天皇。娶2師木縣主之祖河俣毘賣1。生2御子1。師木津日子玉手見命。<一柱>天皇御年肆拾伍歳。御陵在2衝田岡1也。

 

訓読:カムヌナカワミミのミコト、カヅラキのタカオカのミヤにましまして、アメノシタしろしめしき。このスメラミコト、シキのアガタヌシのおやカワマタビメをめして、ウミませるミコ、シキツヒコタマデミのミコト。<ひとばしら>スメラミコトみとしヨソヂマリイツツ。ミハカはツキダのおかにあり。

 

口語訳:神沼河耳命は葛城の高岡の宮に住んで、天下を治めた。この天皇が師木縣主の先祖、河俣毘賣を娶って生んだ子が師木津日子玉手見命<一柱>。天皇は四十五歳で崩じた。御陵は衝田の岡にある。

 

この天皇は、後の漢風諡号では綏靖天皇という。

○葛城(かづらき)は書紀の神武の巻に「また高尾張の邑に土蜘蛛がいた。その身長は低く、手足が長かった。侏儒(こびと)の類である。皇軍は葛の網を作って掩いかぶせ、土蜘蛛を殺した。そこでその邑の名を改めて葛城と言った。【また劔根(つるぎね)」という者を葛城の国造とした】」と見え、高津の宮(仁徳天皇)の段の歌に「迦豆良紀多迦美夜(かづらきたかみや)」とあり、書紀の推古の巻に「葛城の縣」、天武の巻に「葛城下の縣」など見える。

 

和名抄に、「大和国葛上郡は『かづらきのかみ』、葛下郡は『かづらきのしも』」とある。「高岡」。この名は他の書に見えたことがない。【大和志にこの宮の址が葛上郡の森脇村にあると書いてあるが、例によって信じられない。】高宮というのは、あるいはこの宮の址で、「丘」を省いて言うのか、または別なのか分からない。書紀には「葛城に都を作った。これを高丘の宮という」とある。<訳者註:現在御所市大字森脇に高丘宮址の碑が建てられている>

2018/10/19

綏靖天皇(2)

日本書紀

神渟名川耳天皇(=綏靖天皇)は、神日本磐余天皇(=神武天皇)の第三子です。母は媛蹈韛五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメカミ)といいます。事代主神(コトシロヌシカミ)の大女(エムスメ=長女)です。

天皇は姿がかわいらしく、幼少の頃から雄々しい性格でした。壮(オトコザカリ)になり容貌(カタチ)が魁(スグ=柄杓の大きいところ=大きくて立派)れて偉(タタハ=充実してはちきれそうに)しくなりました。武芸も優れて、志は高い天皇でした。

 

48歳になり、神日本磐余天皇(カムヤマトイワレヒコスメラミコト)は崩(カムアガリ=神になり天に上がる=死ぬ)しました。そこで神渟名川耳天皇(カムヌナカワミミノミコト)は孝性(オヤニシタガウヒトトナリ)は素直で深く、(親の死を)悲しみ偲(シノ)び、喪葬(ミハブリ)の儀式に取り組みました。

 

兄の手硏耳命(タギシノミミノミコト)は、大人になってから長く朝機(ミカドマツリゴト)に携わっていました。その王はシッカリものでしたが、仁義(ウツクシビコトワリ)に背いていました。ついに諒闇(ミモノオモイ=天子が喪に服す期間のこと)のときに調子に乗り、禍心(マガノココロ)を隠して、二人の弟を殺そうと計画しました。

その時、太歳庚辰です。

 

冬11月。

神渟名川耳尊(カミヌナカワミミノミコト)は、兄の神八井耳命(カムヤイミミノミコト)と密かに、その殺害計画を知り、どうにか防ぐことにしました。山陵(ミササギ)の儀式(=神武天皇の葬儀)のときになり、弓部稚(ユゲノワカヒコ)に弓を作らせました。倭鍛部天津眞浦(ヤマトノカヌチアマツマラ)に、眞麛鏃(マカゴノヤサキ=鹿の矢じり)を作らせました。矢部(ヤハギベ)に矢を作らせました。弓矢が出来て神渟名川耳尊(カミヌナカワミミノミコト)は、手硏耳命(タギシミミノミコト)を射殺そうと思いました。たまたま手硏耳命(タギシミミノミコト)が片丘(カタオカ=奈良県北葛城郡王寺町・志都美村・上牧村の辺り)の小屋の中で、一人で大きな寝床にいました。

 

その時、渟名川耳尊(ヌナカワミミノミコト)は神八井耳命(カムヤイミミノミコト)に語りました。

 

「今がチャンスだ。

言葉は控えて。

行動は静かに。

わたしの陰謀(シノビハカリゴト)には、誰も助けてくれる人はいません。今日の事はただ、私とあなたが自発的に行動するだけです。わたしが小屋の扉を開けるので、あなたが射って殺してください」

 

二人は協力して小屋に入りました。神渟名川耳尊(カムヌナカワミミノミコト)は、扉を突いて開きました。神八井耳命(カムヤイミミノミコト)は手足が戦慄(フルイオノノキ)して、矢を射ることが出来ませんでした。神渟名川耳尊(カムヌナカワミミノミコト)は、その兄の持っていた弓矢を引き抜いて取り、手硏耳命(タギシノミミノミコト)を射ました。一発で胸に当たりました。もう一発射つと背中に当たり、ついに殺しました。

 

これで神八井耳命(カムヤイミミノミコト)は自分の非(=射ち殺せなかった事)を恥ずかしく想い、神渟名川耳尊(カムヌナカワミミノミコト)に皇位を譲って言いました。

 

「私は兄ではあるが、未熟で弱く、不能致果(イシキナ=良い結果は出ない)いだろう。今、あなた(=ヌナカワミミ)は優れて神武(アヤシクタケシ)がある。私は悪い所がある。あなたが天位(タカミクラ=皇位)について、皇祖(ミオヤ)の業(ツギテ=継ぐこと=天皇の仕事)を受けるのはもっともなことだ。わたしはあなたの助けとなって、神祇(アマツヤシロクニヤツシロ)を司り祀りましょう」

 

神八井耳命(カムヤイミミノミコト)は、多臣(オオオミ=大和国十市飫富郷…現在の奈良県磯城郡城田原本町多の氏族)の始祖です。

 

綏靖天皇が即位した元年の春1月8日。

神渟名川耳尊(カムヌナカワミミノミコト)は、皇位を継ぎました。葛城に都を作りました。それが高丘宮(タカオカノミヤ)といいます。皇后(=神武天皇の皇后の媛蹈韛五十鈴媛命のこと)を尊び、皇太后(オオキサキ)と呼ぶようになりました。この年は太庚辰です。

 

即位2年の春1月に、五十鈴依媛(イスズヨリヒメ)を皇后としました。

ある書によると、磯城縣主(シキノアガタヌシ)の娘の川派媛(カワマタヒメ)とも言われます。

またある書によると、春日縣主大日諸(カスガノアガタヌシノオオヒモロ)の娘の絲織媛(イトリヒメ)とも言われます。

 

五十鈴依媛(イスズヨリヒメ)は、綏靖天皇から見ると姨(ミオバ=叔母)になります。后(キサキ)は磯城津玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト)を生みました。

 

即位四年の夏四月に神八井耳命(カムヤイミミノミコト…綏靖天皇の兄)が崩(カムアガリ=神になって天に昇る…死ぬこと)となりました。畝傍山(ウネビヤマ)の北に葬りました。

 

即位25年の春1月の7日。

皇子の磯城津玉手看尊(シキツヒコタマテミノミコト)を皇太子(ヒツギノミコ=次の天皇候補)にしました。

 

即位33年の夏5月に、天皇は不豫(コトヤマヒ…病気)になりました。崩御されました。そのとき84歳でした。

2018/10/18

戦国時代(3)


 秦の環銭は、おなじみの形です。円くて穴があいている。やがて秦が戦国時代を終わらせて中国統一をします。で、この形のお金が、中国のスタンダードになる。これが日本列島にも入ってきて、銅銭には穴をあけるようになる。日本史に出てくる和同開珎や、この前発見された富本銭もそうでしょ。これは今の五円、五十円にまで受け継がれる伝統だ。なぜ、五円玉に穴があいているのか、さかのぼれば秦の環銭にまで行き着くというわけです。私が小さかった頃に、穴のあいていない五円玉や五十円玉がありましたよ。でも、いつの間にか消えてまた穴あきに戻ったね。穴がないと、なんか寂しいんですね、大蔵省も。じゃあ、なぜ十円や百円には穴がないのか。これは私の想像ですけれど、明治維新で西欧化を目指すでしょ。十円、百円の系列のお金は多分ヨーロッパのコインをモデルにしたモダンな形、一方、五円、五十円の系列は伝統にのっとったのではないかな。あくまで想像ですけど。

  ところで、刀や農具など大事な物がお守り的な役目を持つのはわかりやすいんですが、秦の環銭にはどんな意味があるのか。やはり、穴に意味があるのではないかと思う。この穴に何か神様が宿るんじゃないか。コックリさん、知ってるでしょ。小学校時代に流行した。すぐ禁止されてしまったけれどね。あれをするときに使うのが、必ず五円玉でした。十円ではだめなの。コックリさんがやって来て、穴の中に入るんだとわれわれは信じていましたけど、違います?

 それから、新年早々のスーパーで買い物をすると、お年玉といってポチ袋に入った五円玉をもらった経験はありませんか。五円玉の穴に紅白の紐が通してあって、これを財布に入れておくとお金が貯まるというやつ。あれも、十円や百円では雰囲気でないのね。

 現代に生きているわれわれの中にも、お金の穴に関してぼんやりだけど特別な力の存在、呪術的な何かを感じる感性が受け継がれています。戦国時代には、もっと強い神秘的な力を人々は感じていたんだと思う。お金は、単に流通・交換のための道具ではなかったということです。

話がだいぶそれてしまいました。商業の発展に関して、もう一つ「矛盾」の話をしておきましょう。

 矛盾という言葉は知っているよね。この言葉のルーツが、この時代です。ある都市の市場、盛り場で口上を唱えながら武器を売っていた商人がいた。矛を売るときはどんな盾でも貫くと言い、盾を売るときにはどんな矛でもはねかえす、と言いながら売っている。それをみていた冷やかしの男が「おまえの矛でその盾を突いたらどうなるんじゃ!」と突っ込みを入れたんですな。これが矛盾という言葉のもとです。

 この話をよく考えてみると、みごとに戦国時代の状況が浮かび上がってくる。商人が売っていた「どんな盾でも貫く矛」は、いったい何でできていたのか。鉄製としか考えられない。盾も鉄張りだったんでしょう。ようやく鉄製の武器が出回り始めている状況、そのなかで商人は「最新式の武器だ!」と言って売っているわけです。

 さらに、市場で売っているという事も重要ですね。市場で売られているということは、注文を受けてから鍛冶屋さんが作るんではなくて、流通を前提にして大量生産されているということですよ。源平合戦の頃の平氏や源氏の侍たちが、京都や鎌倉の市場で武具を買っていたのかどうかを考えてみれば、当時の中国の社会がどれだけ商工業が発展しているのか実感できるでしょ。

 そして、当然のことではありますが売られているのが武器だということ、戦争が日常的におこなわれ、武器を手に入れて一旗揚げようかという浪人がゴロゴロいた。古くからの農業共同体を出て、諸国を遍歴している人々がたくさんいたことを思わせますね。社会全体が大きな変動期をむかえていたこという事が「矛盾」から分かるのです。

 農業、商業、流通の発展と社会の活性化、流動化の中で戦国の諸国は生き残りを賭けて、富国強兵策をおこないました。それは、また次回。