1. 苦しみから安らぎへ
世の中には、自分の思い通りにならないことが多い。苦しみに満ちている。ブッダは、この世の苦しみから脱することを望み、悟りを得て、解脱した。この自らの体験をもとに、苦しみから安らぎへいたる道を人々に示すこと、これがブッダの目指したことであった。
「伝承によるのではなくて、いま目の当たり体験されるこの理法を、わたしはそなたに説き明かすであろう。」(Sn.1053. cf. 921、1057、1066.)
ブッダは、体系的な理論を説いたわけではない。説く相手に応じて説き方を変えたといわれる(仏の対機説法)。最古層の経典には、その特徴がよく現れている。そこには新しい層にみられるような整備された教理は見出されない。
「私には、自分はこれこれのことを説くということがない」(Sn.837)
ブッダは理論よりも実践を重んじた。しかし、その教えには一貫した思想傾向が認められる。
2. 神秘的なものの否定
ブッダは、神あるいは神秘的なものを説き、それへの信仰あるいはまじないによって、問題を解決しようとしたわけではなかった。呪術、占いは禁止された。
「呪術、夢占い、人相占い、星占い、鳥占い、懐妊術を行うな。わたしの教えにしたがうものは治療術にかかわるな。」(Sn.927.)
しかし、『スッタニパータ』第 5章でも、最古層とはみなされない「序」976ー1031には、ブッダの神秘化・神格化の進んだ説が現れ、信仰が肯定的に説かれる。
「根源的な無知が頭であると知れ。明知が信仰と思念と精神統一と意欲と努力に結びついて、頭を引き裂く。」(Sn.1026.)
当初のブッダの教えは、宗教的というよりも合理的で倫理的であったが、ブッダの教えに信頼を寄せ、帰依する人々の集団が形成されるにともなって、急速に宗教性が強まったものと考えられる。
3. 合理的な思惟
ブッダのものの見方は、きわめて合理的である。苦しみが宿命や神の意志、あるいは偶然から起こるものであるとは考えなかった。苦しみが生ずるには、そこにかならず何らかの原因・条件がはたらくと考えた。
ブッダの最初の説法を聞いた五人の修行僧(五比丘)の一人アッサジ(アシュヴァジット)長老に帰せられる「縁起法頌」と呼ばれる偈は、そのようなブッダの姿勢をよく伝えている。
「何であれ、もろもろのことがらは原因から生ずる。それらの原因を如来は説かれた。また、それらの止滅をも。偉大な沙門は、そのように説かれる。」(Mahāvagga 1-23-5)
ただし、このことからただちに原始仏教のすべてを理性的であるとみなすことはできない。布教の過程では、当時の俗信あるいは迷信を必ずしも排除しなかったからである。ブッダの教えが合理的で理性的であるとは、根底となる考え方が合理的で理性的であるという意味である。
4. 苦しみの原因
なぜ、苦しみが生まれるのかをブッダは理性的に追究した。その答えの一つは、この世のものがすべて無常であるからである。
「人々は、わがものであると執着したもののために悲しむ。所有しているものは常住ではないからである。」(Sn.805.)
また、この世の苦しみは死と強く結びついている。
「ああ、この命の短いこと。百歳にならないうちに死ぬ。かりに、それより長生きしても、いずれは老衰のために死ぬ。」(Sn.804.)
「世の人が生存への渇望にとらわれ、ふるえているのを、わたしは見る。世俗の人々は、それぞれの生存への渇望からはなれられず、死に直面して泣く。」(Sn.776.)
5. 縁起
世界が無常であることを明らかにすることによって、この世の苦しみを説明する一方で、苦しみを滅するために、苦しみを生み出す原因が何であるかを追究することも行われた。いわゆる「縁起説」である。
「縁起」ということばは、現在では、もっぱら「縁起がよい、悪い」というように「ものごとの起こる前ぶれ、前兆」の意味で用いられている。しかし、もともとはそのような意味ではなかった。
「縁起」とは「よって起こること」で、具体的には「苦しみは、なんらかの原因・条件(因縁)によって起こり、その原因・条件(因縁)がなくなれば、苦しみもなくなる」ということである。
「縁起説」は、苦しみを生み出す因果の系列をさかのぼって、苦しみの根源をさぐりあて、それを滅することにより苦しみを解消することをめざすものである。
これは後に整備され、因果系列の項目が十二にまとめられる(十二縁起)。十二縁起説では「根源的な無知」が苦しみの根本的な原因とされ「悟り」と対置される。しかし、最古層の経典では、一定の因果系列は現れてこない。対論する相手に応じて、さまざまに説かれるが、もっとも多くとりあげられるのは欲望である
6. 欲望と智慧(欲望を制するもの)
欲望(kaama)が苦しみの原因であるという考え方は、ブッダ当時のインドの通念であったといってよいであろう。『スッタニパータ』第四章は「欲望」と名づけられた経(kaamasutta)ではじまる。
「欲望をもち、欲求をおこして、欲望が果たせないと、人は矢に射られたかのように悩み苦しむ。」(Sn.767.)
「田畑・土地・黄金・牛・馬・召使・女性・親族など、さまざまな欲望に人が執着するならば、(欲望は)力を用いることなく、その人を征服し、災難がその人を踏みにじる。それから、苦しみがその人につきまとう。難破船に水が入りこむように。」(Sn.769,770.)
では、欲望を制するものは何か。ブッダは、欲望を制するものとして智慧を重視する。この立場は、当時勢いのあった苦行主義と対照的に異なる。後者は、欲望と欲望にもとづいて行われた行為の結果(業)を心についた物質的な垢とみなし、肉体的苦痛を耐えることから生ずる熱力によって、それを払い落とそうとする。これに対し、ブッダは欲望を心の働きとみなし、苦行ではなく真理を悟る智慧によって欲望は制することができると説く。
「この世におけるあらゆる(欲望の)流れをせき止めるものは、思念である。(思念が)流れを防ぎまもる。智慧によって流れはたたれるであろう。」(Sn.1035. cf. Dhammapada 339,340.)
「わたしは、世間において疑惑に惑う人は誰も解脱させることができない。ただ最上の真理を知るならば、あなたはこの激流をわたるであろう。」(Sn.1064.)
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