2018/10/19

綏靖天皇(2)

日本書紀

神渟名川耳天皇(=綏靖天皇)は、神日本磐余天皇(=神武天皇)の第三子です。母は媛蹈韛五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメカミ)といいます。事代主神(コトシロヌシカミ)の大女(エムスメ=長女)です。

天皇は姿がかわいらしく、幼少の頃から雄々しい性格でした。壮(オトコザカリ)になり容貌(カタチ)が魁(スグ=柄杓の大きいところ=大きくて立派)れて偉(タタハ=充実してはちきれそうに)しくなりました。武芸も優れて、志は高い天皇でした。

 

48歳になり、神日本磐余天皇(カムヤマトイワレヒコスメラミコト)は崩(カムアガリ=神になり天に上がる=死ぬ)しました。そこで神渟名川耳天皇(カムヌナカワミミノミコト)は孝性(オヤニシタガウヒトトナリ)は素直で深く、(親の死を)悲しみ偲(シノ)び、喪葬(ミハブリ)の儀式に取り組みました。

 

兄の手硏耳命(タギシノミミノミコト)は、大人になってから長く朝機(ミカドマツリゴト)に携わっていました。その王はシッカリものでしたが、仁義(ウツクシビコトワリ)に背いていました。ついに諒闇(ミモノオモイ=天子が喪に服す期間のこと)のときに調子に乗り、禍心(マガノココロ)を隠して、二人の弟を殺そうと計画しました。

その時、太歳庚辰です。

 

冬11月。

神渟名川耳尊(カミヌナカワミミノミコト)は、兄の神八井耳命(カムヤイミミノミコト)と密かに、その殺害計画を知り、どうにか防ぐことにしました。山陵(ミササギ)の儀式(=神武天皇の葬儀)のときになり、弓部稚(ユゲノワカヒコ)に弓を作らせました。倭鍛部天津眞浦(ヤマトノカヌチアマツマラ)に、眞麛鏃(マカゴノヤサキ=鹿の矢じり)を作らせました。矢部(ヤハギベ)に矢を作らせました。弓矢が出来て神渟名川耳尊(カミヌナカワミミノミコト)は、手硏耳命(タギシミミノミコト)を射殺そうと思いました。たまたま手硏耳命(タギシミミノミコト)が片丘(カタオカ=奈良県北葛城郡王寺町・志都美村・上牧村の辺り)の小屋の中で、一人で大きな寝床にいました。

 

その時、渟名川耳尊(ヌナカワミミノミコト)は神八井耳命(カムヤイミミノミコト)に語りました。

 

「今がチャンスだ。

言葉は控えて。

行動は静かに。

わたしの陰謀(シノビハカリゴト)には、誰も助けてくれる人はいません。今日の事はただ、私とあなたが自発的に行動するだけです。わたしが小屋の扉を開けるので、あなたが射って殺してください」

 

二人は協力して小屋に入りました。神渟名川耳尊(カムヌナカワミミノミコト)は、扉を突いて開きました。神八井耳命(カムヤイミミノミコト)は手足が戦慄(フルイオノノキ)して、矢を射ることが出来ませんでした。神渟名川耳尊(カムヌナカワミミノミコト)は、その兄の持っていた弓矢を引き抜いて取り、手硏耳命(タギシノミミノミコト)を射ました。一発で胸に当たりました。もう一発射つと背中に当たり、ついに殺しました。

 

これで神八井耳命(カムヤイミミノミコト)は自分の非(=射ち殺せなかった事)を恥ずかしく想い、神渟名川耳尊(カムヌナカワミミノミコト)に皇位を譲って言いました。

 

「私は兄ではあるが、未熟で弱く、不能致果(イシキナ=良い結果は出ない)いだろう。今、あなた(=ヌナカワミミ)は優れて神武(アヤシクタケシ)がある。私は悪い所がある。あなたが天位(タカミクラ=皇位)について、皇祖(ミオヤ)の業(ツギテ=継ぐこと=天皇の仕事)を受けるのはもっともなことだ。わたしはあなたの助けとなって、神祇(アマツヤシロクニヤツシロ)を司り祀りましょう」

 

神八井耳命(カムヤイミミノミコト)は、多臣(オオオミ=大和国十市飫富郷…現在の奈良県磯城郡城田原本町多の氏族)の始祖です。

 

綏靖天皇が即位した元年の春1月8日。

神渟名川耳尊(カムヌナカワミミノミコト)は、皇位を継ぎました。葛城に都を作りました。それが高丘宮(タカオカノミヤ)といいます。皇后(=神武天皇の皇后の媛蹈韛五十鈴媛命のこと)を尊び、皇太后(オオキサキ)と呼ぶようになりました。この年は太庚辰です。

 

即位2年の春1月に、五十鈴依媛(イスズヨリヒメ)を皇后としました。

ある書によると、磯城縣主(シキノアガタヌシ)の娘の川派媛(カワマタヒメ)とも言われます。

またある書によると、春日縣主大日諸(カスガノアガタヌシノオオヒモロ)の娘の絲織媛(イトリヒメ)とも言われます。

 

五十鈴依媛(イスズヨリヒメ)は、綏靖天皇から見ると姨(ミオバ=叔母)になります。后(キサキ)は磯城津玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト)を生みました。

 

即位四年の夏四月に神八井耳命(カムヤイミミノミコト…綏靖天皇の兄)が崩(カムアガリ=神になって天に昇る…死ぬこと)となりました。畝傍山(ウネビヤマ)の北に葬りました。

 

即位25年の春1月の7日。

皇子の磯城津玉手看尊(シキツヒコタマテミノミコト)を皇太子(ヒツギノミコ=次の天皇候補)にしました。

 

即位33年の夏5月に、天皇は不豫(コトヤマヒ…病気)になりました。崩御されました。そのとき84歳でした。

0 件のコメント:

コメントを投稿