出典 http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/bukkyou1.htm#ch2
7. 実践・努力--自力主義
ブッダの教えは「真理を悟ること」による安らぎを究極の目的としている。そのために智慧が重視され追求される。しかし、それは単に知識を獲得すればよいということではない。知識があるだけでは聖者といわれない。
「世の中で、善き人々は、見識、ヴェーダの学識、智慧があるからといって、(誰かを)聖者であるとはいわない。(欲望を)制し、悩みなく、無欲となった人を、わたしは聖者という。」(Sn.1078.)
悟りは宗教的な体験である。それは真理を「理解すること」ではあっても、「分別によって概念的に理解すること」ではない。
「内的にも、外的にも、いかなることがらをも知りぬけ。しかし、それによって慢心を起こしてはならない。それが安らぎであるとは真理に達した人々は説かないからである。」(Sn.917.)
智慧は分別による知ではない。体験されるべきものである。教えにそった行いを通じて、安らぎという理想の体験に向かって努力することが求められる。
「その理法を知って、よく気をつけて行い、世間の執着を乗り越えよ」(Sn.1053.)
「熱心に努力せよ。思慮深く、思念をこらして、わたしのことばを聞き、自分の安らぎを目指して訓練せよ。」(Sn.1062.)
ブッダの基本姿勢は自力主義である。
「他人が解脱させてくれるのではない。」(Sn.773.)
世俗の生活を離れ、みずから安らぎを求めて努力することが理想とされる。
「この世のものはかならずなくなるものであると見て、在家にとどまっていてはならない。」(Sn.805.)
8. 実践のための徳目ーー無執着
安らぎへいたる正しい生活を送るために、どのような心をもち、どのように行動すべきかが具体的に説かれる。たとえば、名声・財産・食物・衣服・異性などに対する禁欲、あるいは嘘・怠惰・怒り・後悔など心を汚す行いを避けることなどであるが、これらを集約するものとして強調されるのが「執着するな」ということである。
執着は苦しみの主要な原因と考えられた。
「世の中の種々さまざまな苦しみは、執着を縁として生ずる。」(Sn.1050.)
「無知なまま、執着する人は、愚か者で、くりかえし苦しむ。苦しみの生起のもとを観察した智慧ある人は、執着してはならない。」(Sn.1051.)
執着とは「わがもの」という観念をもち、それにこだわることである。したがって、どんなものについても「わがもの」という観念をもつことが否定される。
「(何かを)わがものであると執着して動揺している人々を見よ。(かれらのありさまは)ひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである。」(Sn.777.)
「世間における何ものをも、わがものであるとみなして固執してはならない。」(Sn.922.)
「何であれ、「これはわがもの。これはひとのもの」と思わない人は、わがものという観念を知らない。このような人は、「自分にはない」といって悲しむことがない。」(Sn.951.)
「無所有、無執着。それが(老いと死という激流に対して避難所となる)洲にほかならない。それを安らぎと呼ぶ。それは老いと死の消滅である。」 (Sn.1094.)
9. 論争を避けること
執着してはならないということは、自分の見解・信条についても求められる。
「自分の見解に対する執着を超越することは容易ではない。」(Sn.785.)
理想として追求されるべき安らぎについてすら、こだわってはならないとされる。
「一切の戒律や誓いを捨て、(世間の)罪のある、あるいは罪のない行為を捨てて「清浄である」とか「不浄である」とかいって欲求を起こすこともなく、それらにとらわれずに行え。----(目指すべきものとされる)安らぎに固執することもなく。」(Sn.900.)
したがって、自説にこだわり論争することは避けよ、と説かれる。これについては、当時のインドの思想状況とかかわりがある。
どのようにすれば、この世の苦しみから解放されるか。この問題意識は、ブッダと同時代のインドの思想家たちに共有されていた。ブッダの他にも多くの思想家が教理を立てた。さまざまな説が唱えられ、その違いから活発な論争が行われた。
「ある人々が、真実だ、正しいということを、他の人々はうそだ、間違いだと争って議論する。なぜ修行者たちは同じことを説かないのか。」(Sn.883.)
論争では、安らぎを得るための智慧の追求が、論敵に勝つための理論の追求に変わる。しかも、日常経験の範囲を越えた形而上学的な問題が扱われる。それらは経験によって確かめられない。肯定・否定の両論がならびたち、決着はつかない。
「世の中に多くのさまざまな永遠の真理があるわけではない。ただ想像して立てられているだけである。独断的な見解にもとづいて推論を立て、これが真理だ、間違いだと両極端の教えを説いているのである。」(Sn.886.)
論争は、論争のための論争に陥る。ブッダはこれを無用と考えた。論争を避けることは随所に説かれる。
「自説にこだわり、これこそ真理だと論争する人々はみな、非難をうけるか、あるいは、時には賞賛をうることもある。くだらないことである。心の平静のためになることではない。論争の報酬は(非難と賞賛の)二つだけである。これを見きわめ、論争を避けよ。心の平安をめざすとは、論争しない境地に立つことである。」(Sn.895,896, cf. Sn.824-834、837ー847、878ー894.)
あらゆる立場への無執着が強調され、極端説だけでなく、中間にもとらわれないことが説かれる。
「知者は両極端を知りつくし、中間にもけがされない。そのような人をわたしは、偉大な人という。そのような人はこの世で、縫いつけるもの(妄執)を超越している。」(Sn.1042.)
10. 安らぎ(涅槃、彼岸)
この世の苦しみを脱して到達される安らぎは「涅槃」といわれる。仏教の究極の目的である。涅槃は、nibbāna (Sk. nirvāṇa)の音訳である。nibbānaは「消滅」を意味し、欲望を火にたとえて、涅槃は火の吹き消された状態として表現される(Sn.1074.)。また、欲望が激流にたとえられ、涅槃はそれを越え渡ったところであるから、「彼岸」(pāram)ともいわれる。『スッタニパータ』第 5章は「彼岸にいたる道の章(pārāyanavagga)」と名づけられている。
涅槃は、後には死と結びつけられるが、はじめは現世において得られるものとされていた。
「この世において、見たり聞いたり考えたり意識したりする形うるわしいものに対する欲望やむさぼりを除き去れば、不滅の安らぎの境地である。」 (Sn.1086.)
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