2018/10/05

欠史八代(2)

実在説

欠史八代の天皇を実在と考える代表的な根拠は以下の通り。

 

記紀歴史書説

記紀を歴史書と想定し、皇極天皇4年(645年)の乙巳の変とともに、記紀以前の国記などの代表的な歴史書が火事で無くなったために、記録が曖昧になってしまったと考える説。系図だけは稗田阿礼が記憶していたが、その他の業績の部分に関しては火事で焼失した歴史書と共に消え失せたと考える。

 

葛城王朝説

初代神武天皇から欠史八代までの系譜を10代の崇神天皇の一族とは別の王朝のものと考え、その王朝の所在地を葛城(現在の奈良県、奈良盆地南西部一帯)の地に比定する説。この葛城王朝は奈良盆地周辺に起源を有し、九州を含む西日本一帯を支配したが、九州の豪族である崇神天皇に併合されたと考える。この葛城王朝説は、邪馬台国論争とも関連させて考えることができ、この説を発展させて邪馬台国は畿内にあったとして、葛城王朝を邪馬台国に、崇神天皇の王朝を狗奴国にそれぞれ比定する説や、邪馬台国は九州にあったとして崇神天皇の王朝が邪馬台国またはそれに関連する国、あるいは邪馬台国を滅した後の狗奴国とする説などもある。

 

プレ大和王権説

古くは賀茂真淵の説にまで遡り、崇神天皇が四道将軍の派遣等遠国への支配を固めていったのに対し、それ以前の天皇は畿内周辺のみが王権の届く範囲であったとする説。欠史八代の多くの大王は近隣の磯城県主と婚姻を結んでおり、后妃の数も孝安天皇以前は異伝があるにせよ基本的に一名であるあることなど、畿内の一族長に過ぎなかったとも考えられる。また、四道将軍は吉備津彦命が孝霊天皇の後裔、大彦命と建沼河別命が孝元天皇の後裔、彦坐王が開化天皇の後裔であるため、欠史八代と崇神天皇に断絶を考えない説もある。

 

古代天皇の異常な寿命について

29代に限らず古代天皇の異常な寿命の長さは不自然だが、これは実在が有力視される21代雄略天皇にも見られ、これだけで非実在の証拠とはならない。讖緯説に従い日本史を遡らせるならば、自然な長さの寿命を持つ天皇の存在を何人も創作して代数を増やせばよい。にもかかわらずそれをしなかったのは、帝紀記載の天皇の代数を尊重したためであろう。

 

古代天皇達の不自然な寿命の長さが、かえって系譜自体には手が加えられていないことを証明していると考えることもできる。また、『古事記』と『日本書紀』の年代のずれが未解決であるため、史書編纂時に意図的な年代操作はないとして、原伝承や原資料の段階で既に古代天皇(大王)は長命とされていた可能性を指摘する説もある。さらに、先代天皇との親子合算による年数計算を考慮すべきとの説もある。

 

半年暦説

古代の日本では、半年を一年と数えて一年を二回カウントしていたと考える『半年暦説』(一年二歳暦)もある。『魏志倭人伝』の裴松之注には

「『魏略』に曰く、その俗正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す」

と記されており、古代の倭人が一年を耕作期(春・夏)と収穫期(秋・冬)の二つに分けて数えていた可能性が窺える。そのことを踏まえれば天皇達の異常な寿命にも不自然さがなくなり、『魏志倭人伝』の記述にある倭人が「百年、あるいは八、九十年」まで生きたという古代人としては異常な長寿についても説明がつく。さらに、現代にも残る日本の行事や民間祭事には(大祓や霊迎えなど)、一年に二回づつ行われるものが多い。皇室の存在を神秘的に見せるために長命な天皇を創作するのであれば、旧約聖書の創世記に出てくるアダムのような(930歳まで生きたとされる)飛び抜けた寿命にしてもよいのに、二分の一に割って不自然な長さになる天皇は一人も存在せず、このことも半年暦が使用されていたことを窺わせる。

 

また、17代履中天皇以降から不自然な寿命が少なくなり、『古事記』と『日本書紀』の享年のずれがおおよそ二倍という天皇もおり(実在が有力な21代雄略天皇の享年は『古事記』では124歳、『日本書紀』では62歳と、ちょうど二倍。26代継体天皇も『古事記』43歳と『日本書紀』82歳で、ほぼ二倍)、この時期あたりが半年暦から標準的な暦へ移行する過渡期だったと推測できる。

 

その他の実在説

欠史八代を皇室(=ヤマト王権の長)以外の豪族の王とする説。後世の子孫たちが祖王を天皇家の先祖に据え、朝廷の支配を正当化しようとしたとする。モデルとなった人物の実在には諸説ある。上記の葛城王朝説も、これに含まれる。

 

『日本書紀』における神武天皇の称号『始馭天下之天皇』と、10代崇神天皇の称号『御肇國天皇』を「ハツクニシラススメラミコト」と読む訓み方は、鎌倉・室町時代(あるいは平安末期)の訓み方であり、『書紀』編纂時のものとは異なっていた可能性がある。どちらも同じ意味であるならば、わざわざ漢字の綴りを変える理由が解らない。

 

「高天原」などの用語と照応するならば、神武の称号の「天下」は後代で使われる形而上的な概念とは意味が違い、「天界の下の地上世界」といったニュアンスであろう。すなわち神武の『始馭天下之天皇』は「ハジメテアマノシタシラススメラミコト」などと読んで天の下の世界を初めて治めた王朝の創始者と解し、崇神の『御肇國天皇』は、その治世にヤマト王権の支配が初めて全国規模にまで広まったことをと称讃したとものと解釈すれば説明がつく。

 

上述のように、稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣に8代孝元天皇の第一皇子大彦命の実在を示す系譜が刻まれていたことから、孝元天皇及びその直系親族や近親者も実在したと考える説。孝元の名前を刻まなかったのは、大彦命が孝元の皇子であることが広く知られていたためと考えられる。鉄剣に刻むスペースの問題を考えれば、孝元の名を省いたとしても不自然ではない。

 

帝紀的部分のみがあって、旧辞的部分を全く欠くのは29代の天皇だけではない。帝紀はもともと系譜的記事だけのものである。旧辞的記事のないことのみで、帝紀を疑う理由にはならない。29代に相当する旧辞の巻が失われた可能性もある。

 

2代、3代、5代の天皇の名は、明らかに実名として生前に使われた可能性が高い。和風諡号に使われる称号の部分がないためで、実在の可能性は高い。7代~9代の天皇の名は明らかに和風諡号と考えられるが、諡号に使われる称号のヤマトネコ(日本根子・倭根子)を除けば7代はヒコフトニ(彦太瓊・日子賦斗邇)、8代はヒコクニクル(彦国牽・日子国玖琉)9代はヒコオオビビ(彦大日日・日子大毘毘)となり、実名らしくなる。こう考えれば実名を元に諡号が作られた可能性もあり、後世に創作した天皇であるとは一概に言えない。むしろ13代・14代の天皇の名のほうが実名らしくない名前で、和風諡号と言うより抽象名詞(普通名詞)に近く、こちらの方が実在の可能性が低い。

 

すべて父子相続である点は確かに不自然だが、それだけでは非実在の証拠とはならない。むしろ後世に伝わった情報が少なかったために、実際は兄弟相続だったものも便宜的に父子相続と記されたとも考えられる。事績が欠けているのも同様に説明がつく。

 

既述の通り、欠史八代の多くは畿内の近隣豪族と婚姻を結んでいるが、もしもその存在が後世の創作であるとすれば、後代の天皇達のように「皇族出身の女性を娶った」と記す方が自然である。また、『日本書紀』は欠史八代の皇后の名前について、異伝として伝わる別の名前も載せているが、これらの皇后の存在が創作であるのなら、このようなことをする理由がない。

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