神沼河耳命。坐2葛城高岡宮1。治2天下1也。此天皇。娶2師木縣主之祖河俣毘賣1。生2御子1。師木津日子玉手見命。<一柱>天皇御年肆拾伍歳。御陵在2衝田岡1也。
訓読:カムヌナカワミミのミコト、カヅラキのタカオカのミヤにましまして、アメノシタしろしめしき。このスメラミコト、シキのアガタヌシのおやカワマタビメをめして、ウミませるミコ、シキツヒコタマデミのミコト。<ひとばしら>スメラミコトみとしヨソヂマリイツツ。ミハカはツキダのおかにあり。
口語訳:神沼河耳命は葛城の高岡の宮に住んで、天下を治めた。この天皇が師木縣主の先祖、河俣毘賣を娶って生んだ子が師木津日子玉手見命<一柱>。天皇は四十五歳で崩じた。御陵は衝田の岡にある。
この天皇は、後の漢風諡号では綏靖天皇という。
○葛城(かづらき)は書紀の神武の巻に「また高尾張の邑に土蜘蛛がいた。その身長は低く、手足が長かった。侏儒(こびと)の類である。皇軍は葛の網を作って掩いかぶせ、土蜘蛛を殺した。そこでその邑の名を改めて葛城と言った。【また劔根(つるぎね)」という者を葛城の国造とした】」と見え、高津の宮(仁徳天皇)の段の歌に「迦豆良紀多迦美夜(かづらきたかみや)」とあり、書紀の推古の巻に「葛城の縣」、天武の巻に「葛城下の縣」など見える。
和名抄に、「大和国葛上郡は『かづらきのかみ』、葛下郡は『かづらきのしも』」とある。「高岡」。この名は他の書に見えたことがない。【大和志にこの宮の址が葛上郡の森脇村にあると書いてあるが、例によって信じられない。】高宮というのは、あるいはこの宮の址で、「丘」を省いて言うのか、または別なのか分からない。書紀には「葛城に都を作った。これを高丘の宮という」とある。<訳者註:現在御所市大字森脇に高丘宮址の碑が建てられている>
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