2019/08/12

グラックス兄弟の改革 ~ 内乱の一世紀(1)


内乱の一世紀とは、共和政ローマ後期における、紀元前133年のティベリウス・グラックスとローマ元老院(セナトゥス)の対立によるグラックスの死から、紀元前27年にオクタウィアヌスが「アウグストゥス」の称号を得て実質的に帝政がはじまるまでの、およそ100年を指す。英語などでは共和政ローマの危機(Crisis of the Roman Republicと呼ばれる。

前史
ローマの起源は、紀元前8世紀中ごろにイタリア半島を南下したラテン人の一派が、テヴェレ川のほとりに形成した都市国家ローマである(王政ローマ)。当初エトルリア人による王政下にあったローマは紀元前509年、この異民族の王を追放して貴族による共和政を始め、2名の執政官(コンスル)を指導者として、定員300名の元老院が大きな力を持っていた(共和政ローマ)。紀元前494年には護民官(トリブヌス・プレビス)の制度も整えられ、平民(プレブス)も政治に参加していった。

都市国家ローマは次第に力をつけ、中小独立自営農民を基盤として編成された重装歩兵部隊を中核とする市民軍の軍事力によって、イタリア半島の諸都市国家を統一(紀元前272年)、さらに3回にわたるポエニ戦争によってカルタゴを滅ぼし地中海に覇権を伸ばし、広大な領域を支配するようになった。

しかし、共和政ローマの統治機構は、都市国家のそれから生まれたものであり、広大な領土を統治するのにふさわしいものではなかった。征服地の拡大と共にローマは征服地の一部を公有地としつつも、貴族にその占有を許可した。貴族は、属州(プロウィンキア)からの安価な穀物や果実の流入と奴隷労働力の流入によって、没落してゆく農民の土地もあわせて大農場経営(ラティフンディウム)をおこなった。属州では、徴税請負人(プブリカーニ)が属州総督と結んで国家に納める税以上の負担を属州民から搾り取った。一方で没落した農民は多数ローマに流入して、都市ローマの人口は膨れあがり、貧しい住民はしばしば饑餓に陥った。無産者となった彼らは、しばしば「パンとサーカス」を要求した。

また、従来は土地所有農民が軍隊の中核をなすというローマ軍制も危機に瀕していた。重装歩兵に代わって無産者や属州民の傭兵が、軍の主力をなすに至ったのである。元老院は領土が拡大される度に制度改良を行って、このような諸問題に対処してきたが、元来が都市規模の国家を統治するためのシステムを踏襲してきたため、そうした改革にも限界があった。

グラックス兄弟の改革
上述のように、ローマの拡大は反面ではさまざまな「ゆがみ」をもたらしたが、硬直化した元老院はこれに対し制度の抜本的改革ではなく、軍隊を動員しての抑圧という短絡的な手段で応えた。紀元前139年に、シチリア島でローマを揺るがす大反乱(第一次奴隷戦争)が起こる。また、紀元前133年から紀元前130年にかけて、ペルガモン王国の自称「」アリストニコスがローマ支配に対し反乱を起こし、奴隷や貧農に呼びかけて拡大した。これらの騒乱自体は鎮圧されたものの、ローマ共和政は明らかな行き詰まりを見せ始めていた。

腐敗した共和政を改革すべく、民衆派(ポプラレス)のティベリウス・グラックスが護民官としてセンプロニウス農地法(リキニウス法)を実行に移して、大土地所有の制限や無産農民の土地分配を図るなど社会再建にむけた制度改革を推進したが、その過程で元老院と対立し、紀元前133年、志半ばにして支持者たちと共に非業の死を遂げた。ここに、ローマ市で市民同士が血を流して争う事態となり、これよりほぼ100年間、ローマでは「内乱の一世紀」と呼ばれる内乱状態が続くこととなる。

紀元前121年、兄の志を継がんとした弟のガイウス・グラックスもまた元老院と対立するも失脚し自害、数千人といわれる支持者たちもまた処刑された。このグラックス兄弟の死と改革の頓挫によって、共和政ローマの混迷は決定的なものとなった。それは法の無力、実力時代の到来を示す出来事であった。

マリウスの軍制改革と同盟市戦争
紀元前2世紀の終わり、軍人出身の執政官で民衆派のガイウス・マリウスは、上述した歪みの1つである軍の弱体化と自作農の没落に対処すべく軍制改革をおこない、それまでの自作農からの徴兵制から志願兵制に切り替えることで、軍の質的向上と失業農民の雇用確保に成功した。またマリウスは、自らの改革によって精強さを取り戻したローマ共和国軍を率い、ゲルマニアから南下して来ていたキンブリ、テウトニらゲルマン人の軍勢に大勝(キンブリ・テウトニ戦争、前113 - 101年)、ヌミディア王ユグルタがローマ高官を買収し北アフリカでおこした反乱(ユグルタ戦争、前111 - 105年)にも勝利して、ローマの国防力再建に成果を挙げた。

しかし軍内部で、イタリアの同盟市民とローマ市民との待遇差が消えたため(徴兵制時代のローマ市民兵は義務として軍の中核となり危険な任務を担ったが、軍制改革で志願兵制に移行して以降はこれが無くなった)、彼らは同じローマを構成する住民として市民権の付与を求め始めるようになり、これを既得権益が失われると考えた元老院とローマ市民が拒絶したことで、イタリア半島内の諸同盟市の大反乱を引き起こすこととなる(同盟市戦争、前91 - 88年)。

同盟市戦争は、マリウスの副官であった閥族派(オプティマテス)のルキウス・コルネリウス・スッラが元老院の了解のもと、イタリア半島内の諸都市住民の市民権付与を約束して鎮定されたが、軍を構成する兵士が市民兵から職業軍人に代わったことで、次第に元老院やローマ市よりも直近の上司である将軍達に忠誠心を抱くようになり、これは後に起きる内乱の要因のひとつともなっていった。
出典 Wikipedia

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