2019/08/18

プラトン(10) ~ 魂の三部分説


出典http://www.ozawa-katsuhiko.com/index.html

ヌース(理性・知性)
 それでは、そのイデアはどのようにして見いだされていくのでしょうか。そんな「イデア」なんて、感覚によって見ることも触ることもできません。しかし我々は見ることも触ることもできないものについての「」も持っているのです。

たとえば「位置だけあって大きさを持たないもの」などがそうですが、そんなものこの地上世界にあるわけありません。しかし我々は、それを知っています。「」です。また、完全なる「円」などというものが、具体物として地上世界に存在しているわけがないのも知っています。でも、それについて幾何学という「知」が成立しているわけです。これらの「知」は「理性・知性」に基づいています。そこで、同じように「見えないイデア」についても理性で迫っていったら、「知」に至れるのではないか、プラトンはそんな風に考えたのです。

 しかし、なぜこのヌース、ないし人間は、そんな真実を知れるのだろう。それについてプラトンは興味深い人間についての考えを示しています。

魂の三部分説
 それは「人間の心を三つの要素」に分ける考え方であり、これは「人間精神のあり方を本格的に考えた史上最初の理論」となります。もちろん、現代の心理学から見ると単純でしょうけれど、このあり方はたとえれば飛行機を発明したライト兄弟を思えばいいでしょう。

現代の航空理論からすれば、ライト兄弟の飛行機なんておもちゃみたいなものです。しかし、ライト兄弟が居なければ現代の飛行機は存在しなかったのです。ライト兄弟の飛行機から発展して、現代の宇宙ロケットが生まれてきたのです。同じように、プラトンの「魂論」があって始めて今日の心理学・精神医学へと進歩してきたのです。

 その「魂論」ですが、それは人間の心(魂)を「感覚・感情的働き」と「恥とか優しさ、勇気、公平・心の広さ、友情などといった心の働き」そして三つ目に「思惟し、判断し決断する心」を分けて考察したものでした。プラトンは、こうした人間の心の在り方全体を「プシューケー」と呼びました。日本では一般に「」と訳しています。分かり易くは「人間の精神とか心」というニュアンスで捕らえておいていいです。そして、さらに上にみられる三つの働きについて、それぞれの働きを詳しく考察しました。

 心の発動として最初に出てくるのは「生物的な感覚的・感情的な働き」で人間は先ずこの働きで動こうとします。動物は、このレベルだけの動きしかしません。
人間もこれが心の動きの最初ですけれど、しかし多くの人間はこれだけでは動きません。第二の心の働きとして「恥の心」や「勇気やいたわりの心」で、その感覚や感情を抑えて行動に移る、ということもあります。これを取りあえず「美的感覚の心」あるいは「気概・徳性」としておきましょう。

 さらに第三の心の働きとして、人間は「これが正しい」「これが善だ」と考えて「恥を忍んで行動する」「他人からどう思われようと正しい行動をしよう」とする心もあります。これは「思考、判断、意志の心」となるでしょう。

このように、人間の心は複雑です。しかし、一番大事なのは三番目の「思考、判断、意志」といった働きです。これが「正しい」とか「善」であるということを見て「感覚・欲望」をコントロールし「優しさや恥じの心」が「良い形」で発動されるようにしてくるからです。プラトンは、この三番目の働きを「ヌース(理性とか知性とか訳している)」と呼びました。

 そして、この「ヌース」は「身体」とは全く異なった原理のものとして、身体的でないものにか代わるとしたのです。たとえば「神」を考え、神とかかわれるのも、こうした「物体ではない人間本体」のところでである、ということになります。

 我々が先に例を挙げておいたように、現象世界には存在しない「点(「位置だけあって大きさがない」という定義ですから、こんなもの現実世界にはあり得ません)や完全なる円(大きさを持つ限り、それは「完全」とはなりません)」を知っているのも、このヌースにおいてなのです。現象世界は物体の世界です。ここは流動し個々バラバラで「真実」を示してきませんが、その「現象世界を通して、このヌースは真実を見る」ことができるのです。プラトンは、こんな風に考えました。

 ということは「イデア」は、この「ヌース」がかかわりヌースが捕らえてくるものということになります。従って我々は、このヌースを磨いていかなければならないということになってくるわけでした。

 以上のような「魂の働き」をプラトンは「人間そのもの、人間本体」といった意味で使うようになります。これは譬えとして、現代風に説明してみると「自動車と運転手」とたとえれば、わかり易いかもしれません。向こうを走っているのは「自動車」です。私達は「車という外観」を見ています。制限速度を遥かに越えてぶっ飛ばしている車、右に左にハンドルを切って乱暴に車線を変えてる車、緩やかに上品に走っている車、色々です。でもそれは「運転手」が動かしているのです。運転手の性格が車に表れているわけです。

 同じように、私達は「身体」において動いているのですが、それを動かしているのは「三つの部分から成り立っている魂」だ、というわけです。私達の行動、態度、身体の現れ、服装などは「魂が決めている」のであって「身体そのもの」が決めているわけではありません。ですから、私達は何よりも「」を大事にし、「魂をより美しく」していかなければならない、となるわけでした。

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