2019/08/25

プラトン(10) ~ 国家篇の問題(1)


プラトンは「イデア論」や「魂論」で有名ですが、もう一つ「国家」についての思考でも有名となっています。もちろん「国家について論じた史上初めてのもの」になり「国家・政治論の原点」となりました。

 ところで、この著作に示される国家像は、しばしば「理想国家」であるとされます。しかし理想という意味を「現実的に実現さるべき理想」と理解してしまいますと、とんでもないことになってしまいます。確かに議論の上では「実現可能」だとか言われ、さまざまな国政の比較なんかやるものですからつい騙されてしまいますが、プラトンの著作は対話編であり「芝居の脚本」みたいなものですから「対話の上での様々な論の交叉」があり、時には自説の反対の論なども出てきてしまいます。本当の所は、この書の内容は全く非現実的なものだということを良く理解しておいてください。

 要するに、ここの「国家論」は全く「理屈だけ」で考えているものです。そうすることで「現実が見えてくる」からです。つまり、ここでの論は人間感情・心理や社会習慣、思いこみなどを一度全部投げ捨てて、純粋に理性だけによった理論として見ようとしています。そこにおいて、感情や習慣に支配されている人間社会の現実や矛盾が露呈されてくるからです。そういう意味では「思考実験的な性格」を持っているのです。
 
たとえば「同じ理性を持つ者である限りでの男女平等論」などがあるのですが、これなどは人間ないし社会の「女は劣等という思いこみ」の矛盾を見事に露呈させています。また人間感情を投げ捨てている条件下での論として、(動物の飼育で行われている)「女性・子供の共有論」、「優者優先論」などは、人間社会が決して「理性だけで人工的に形成されるものではない」ということを見事に指摘しているわけです。あるいは「扇情的な音楽や演劇の排撃」なども展開されます。これも人間の「感情」の上に成立している現実社会のあり方を良く見せてくるわけです。

 つまり、プラトンは人間に不正が生じることの原因を探ろうとするのですが、その時、個人としての人間と「大きな人間としての国家」を平行させて議論を進めていきます。ここでの論は、人間と社会を対応させて、先の魂論で示された人間の「理性」「気概・徳性」「欲望」を社会の階層「指導層」「戦士階級」「商人階級」に当てはめて社会・国家のあり方をみていくものであり、ここに「理性が支配する人間」のありかたを「哲人王(つまり、ここでの「王」とは「理性」のこと)に支配される社会」の思想などとして見ていこうとするのです。

大事なので繰り返しますが、現実の人間や国家は欲望が渦巻きゴチャゴチャだから、そのままでは議論も混乱しています。だから、そうした混乱のもとである感情や欲望切り捨て、全く「理性」だけで物事を見ていこうとしたのです。そうすれば、ともかく理屈の上ではどういうことになるのか、ということは見えてきます。そうすればまた、現実のゴャゴチャも見えてくるだろう、ということです。

 ここでは、論の上で不正を生じさせる元凶となる「欲望・感情・感覚」は全くマイナスの要因として排除されてしまいます。したがって、欲望・感情・感覚に関わるすべての事柄は排除されることになるのです。たとえば、お芝居だの音楽だの物語だのは「」を言わない限り全部だめです。

こうしてプラトンは、ともかく理性に合致するものだけで、国家を考えていこうとするのです。ですから、こんなものが「現実」に実現されるわけもありません。実現したら、それはもはや「人間の国」ではなくなり「天使の国」になる、そうした意味での「理想」なのです。

二点目に注意しなければならないことは、この「国家」というのは、今日のごとき広大な領域をもった国家を意味しないということです。当時の国家とはポリスですが、今日でいえば人口が数万、大きくても数十万クラスの、要するにに「」です。しかも、大人はほとんどの人が全員兵士として戦友であるし、日常的にも何らかのことで一緒に仕事をしたり議論したりで、市民全員が互いに見知っているのです。全然聞いたこともない人が、社会的指導者になるなどということは絶対にありません。こういうポリス社会を念頭においておかないと、意味がわかりません。

 三点目に注意しなければならないのは、当時の市民の在り方、職業意識、女性の位置付け、奴隷制といった「当時の社会状況」が反映しているということです。この市民社会の内実を無視しては、正確な理解にならないのはいうまでもありません。

 四点目に注意しなければならないのは、言葉の意味内容を考えなければならないということですが、たとえばプラトンは「フィロソポス(哲学者)」が国のリーダーにならねばならない、とこの著作の中で主張しています。この時、この哲学者を今日の大学の哲学教授のごときをイメージしてしまったら、とんだお笑いになってしまうのはいうまでもありません。実際に賢帝であり本当に哲学者であったローマ皇帝マルクス・アウレリウスであっても、このプラトンの国家篇でのいわゆる「哲人王」にはなれません。

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