師ソクラテスの問題への回答者「プラトン」
ソクラテスには多くの弟子がおり、そうした人達の中で際だった人達は後にそれぞれ一派を立てていきますが、いずれもソクラテスの精神を受け継ごうとした点では変わりません。プラトンもそのうちの一人で、最も若い弟子といえました。そして他の兄弟子たちは実践的であったのに対し、プラトンは「ソクラテスの問題そのもの」をより精緻により深く掘り下げていったと言えるでしょう。
プラトンの年齢は、紀元前427年~347年と計算されており、したがってソクラテスとは43歳くらいの年の差があり、ソクラテスが死んだ年には28~9歳であったと計算されます。
プラトンの対話篇
ソクラテスは、人と人との具体的対話を大事にしたので「書物」という形で自分の考えを残しませんでした。代わりに、プラトンが師匠のソクラテスを主人公として「対話篇」という形で、その考えを残してくれました。プラトン自身も「対話のみが真実を明らかにしてくる」というソクラテスの考えを受け継いでいたので「対話編」としたのです。ソクラテスが死んでしまった今となっては、そのままにしていたら「ソクラテスの思想」を伝えていくことができません。文字は「直接的な言葉による対話」よりかなり質が落ちて「二次的」なものではあるけれど、伝えないよりはましです。こうして、プラトンは師の思想を残そうとしたのです。
そうしているうちに、自分の思想がどんどん成長していって「師匠のソクラテスを超えていった」ということがあります。プラトンの著作には、そうした性格があります。つまり、段々「プラトンの哲学」になってしまっています。そこで、学問的にはプラトンの著作を「初期、中期、後期」と分け「初期はソクラテス的」、「中期はプラトンによるその発展」、「後期は、それに対する自分自身による批判・検証」と大別しています。
プラトンの問題
プラトンの問題のテーマは、ソクラテスそのままです。つまり「真善美」とは何か、ということです。ソクラテスはそれについて、ソフィストのように人間の取り決めなどとは考えず、真実はあるのだと考えました。ただ、それが非常にうすぼんやりとしか人には知られないので、ああだこうだと異なったり変動したり、恣意的に見えたりするのだ、と考えたわけでした。
ところが、その「真実」は、この現実世界のどこを探してもありはしない。現実世界は確かにソフィスト達が言うように、流動し、不確かです。しかし、何にせよ様々な形をしていても、それらに共通して「同じ現象と判断しているもの(たとえば「正しい」としてみましょう)」ということがあるのだとすると、それはすべての正しい物事に「共通の何かある一つの正しさの型」があって、それに則ってそう判断しているのでなければならない、そうでなければ、それは「正しい」と呼ばれることはあり得ないからだ、とソクラテスは考えたのでした。
この「共通な、ある一つの型」に対し、ソクラテスは「イデア」とか「エイドス」とかの名前を与えました。二つとも「姿、形」という意味です。これは、ソクラテスの弟子のプラトンや、さらにその弟子のアリストテレスに引き継がれていく用語となりました。私達としては「型」とやっておくと分かりやすいかもしれません。
イデア
プラトンは、このソクラテスの考え方をそっくりそのまま受け継ぎます。こうしていわゆる、有名な「イデア論」が構築されていきます。このイデア論をどう理解しておけばいいかということですが、現代の日本の私達にも分かりやすく譬えを使いますと、タイ焼きを思い浮かべてください。たくさんのタイ焼きはどれも似た形はしていますが、アンコが多いの少ないの、黒く焼けたの白っぽいのみんな微妙に異なっています。しかし、みんなタイ焼きであって決して大判焼きとは呼ばれません。何故でしょう。それは、みんな「タイ焼きの一つの型」でつくられているからです。
今目の前にあるたくさんのタイ焼きは個々異なり、流動的です。つくられて存在したかと思うとすぐ食べられて、なくなってしまいます。しかし、型の方は食べられてなくなるなどということはありません。すべてのタイ焼きに普遍的で、個々のタイ焼きのように変化することもなく不動で、ずっと同じままで鯛焼きの個々のものに比べれば永遠的とも言えます。
また、型の方は味もなければ色もありません。タイ焼きの在り方とは全然、違うのです。でもこれがタイ焼きの「原因」であり「型を与えるもの」です。こんな具合に、イデアは個々のたくさんの事物に対して「一つなる原因・根拠」としてあり「普遍、不動、永遠」なるものという性格を持っています。こういう「イデア」に則って、この地上の事物はあると考えたのでした。
「タイ焼き」のたとえは具体的にものですからイメージだけしか理解できませんが、前回見たソクラテスの見いだした「普遍(個々異なるすべての現象物に対して、それらを一つとして認識させる共通のもの)」という考え方は、こうしてプラトンによって「イデア」という回答に至ったわけですが、これはさらに「実体(他の何かによって存在しているのではなく、自分自身が原因で自分自身によって存在しているもの)」といったところにまでいきます。これ以降、現代にまで及んでくる「本質」とか「実体」とかの考え方の史上初の理論が形成されたのでした。だからプラトンのイデア論というのは、有名になっているわけです。
イデアの働き
では、この「イデア」は、どんな働きをしているのでしょうか。答えですが、このイデアは個々バラバラのものを、バラバラであるにもかかわらず、ある一つの共通の名で呼ばしめる規準と考えてもいいし「範型」と考えてもいいです。当然、イデアは物質的性格を何ひとつ持っていません。何故なら、物というのは多であって、一つ一つバラバラで生成してきてそして消滅します。こんなものの一つが、全ての物を規定するものになるわけもないです。たとえば美しいバラが、全ての美しいものの規準になるわけもないのと同じです。
そういうわけで、このイデアは例で言えば「すべての美しい物に共通する一」であり、生成とか消滅したりするものではなく、言って見れば永遠なるもので、色とか形とか、要するに「物質にある性質」は何も持たないのです。
こうしたものが「ない」とすると、何故たとえば美しい少女も、花も星も、夕焼けも、鳥の声も、音楽も、みんな全然違うものなのに、同じように「美しい」と言われるのか、説明もできないのです。プラトンに言わせると、これらはある一つの「美の基準・範型」に照らして、それぞれ現象のあり方は異なるけれど「いずれも美の基準・範型にあっているということで美しいと呼ばれる」となります。
また、美の比較も同じように説明されます。例えば、この少女は美しいと思ったとする。しかし、また違った少女を見た時、もっと美しいと思ったとする。ところが、また他の少女を見た時更にもっと美しいと思ったとしましょう。何故、こんなことが可能だったのでしょうか。これは、この少女達とは別に美の規準があって、これに照らして我々は、第一の少女は美しいと判断したのだけれど、しかし第二の少女は、この規準にもっと近いということで「もっと美しい」といったのであり、第三の少女は一番規準に近いということで「さらに、もっと美しい」と判断された、というわけです。
ここでの「規準・範型」のことをプラトンは「イデア」と名付けたわけで、これによって初めて「他として多であり、異なっているこの地上世界の在り方」が説明されたのです。
しかし、今も言ったようにこんなものが、この地上世界にあるわけもない。言ってみれば、心(魂)が見るものとでもいいようがないですが、残念ながら我々の心は曇っているからよく見えない。だから私達は、いつも間違ったり独り善がりの考え方をしてしまうわけです。そこでプラトンは、こうした「イデアの世界」を想定して、それへの接近を哲学の道としたのでした。
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