マリウスは政治的駆け引きから、民衆派議員で非道な人物との評判であった護民官プブリウス・スルピキウス・ルフスと手を結んでいた。スルピキウスは、敵対者から
「スルピキウスを上回る悪党は、明日のスルピキウスに他ならない」
とまで言われるほど、様々な悪徳を行ったという。
マリウスの子飼いであったスルピキウスは兵士と資金を集め、スッラが再び前線へ視察に向かった隙、3000名の兵士を率いて反乱を起こした。マリウスは元老院を占拠すると、ポントス王ミトリダテス6世討伐(ミトリダテス戦争)への指揮権を自らに譲渡するスルピキウス法を制定させた。マリウスに従えられた元老院はスッラに使者を送ったが、スッラは兵士達を説得して使者を殺害させた。
マリウスはローマで閥族派議員に対する粛清を行い、腹心スルピキウスを使って元老院を支配下に収めていた。追い詰められつつあったスッラは、ローマ進軍という暴挙に及ぶ決断を下した。スッラの元には、再三に亘って禁じられているローマへの行軍を止めるよう、元老院からの勧告が出された。しかしスッラはこれに従わず、説得を行ったブルートゥスとセルウィリウスという名の法務官からファスケスを奪って叩き壊し、元老院議員用のトガを剥ぎ取ってローマに送り返している。元老院政治の一つの象徴でもあるファスケスへの侮蔑は、元老院を大いに失望させた。
ローマ進軍
スッラの使者への侮蔑は、ローマ進軍という行為への決断の証であったが、当のスッラも前日まで大罪を犯すかどうか悩んだ。だが枕元に、自らの行為を賞賛する女神が訪れる夢に励まされ、攻撃を命令したという。対するマリウスは浮き足立つ民衆派の議員をまとめて、ローマ防衛の準備を大急ぎで進めていた。
未明にローマへたどり着いたスッラ軍に、元老院は城門を空けてスッラ達を招き入れた。彼らはスッラの全ての権限が復権される事を約束し、その代わりに陣営を設営するのみに留め、即時攻撃を取りやめる事を要請した。スッラはこれを受け入れる素振りを見せたが、交渉役がエスクイリヌス城壁を通ろうとした所で猛然と攻撃を開始し、一挙に城門を突破した。
スッラの騙し討ちにローマ市民は激怒し、自ら武装してスッラ軍に襲い掛かり、また武器を持たぬ者は屋根瓦を兵士達へ投げつけた。予想以上の抵抗に軍団兵は市民兵に苦戦を強いられ、スッラは火矢を当たりかまわず家屋へ打ち込む命令を出した。火は瞬く間に家屋へ燃え移り、市街地は大火災に見舞われて大勢のローマ市民が犠牲となった。その過程で、スッラには民衆派と閥族派を区別する考慮は全く無かった。攻撃時、奴隷達に防衛軍への参加を促していたマリウスはテルス神殿に逃れ、そこからローマ国外へと亡命した。
マリウスと一族が逃げ去った後、スルピキウスは使用人によって暗殺された。スッラはマリウスに懸賞金を賭け、ローマ全土で行方を捜させた。スッラは元老院への主導権を取り戻したが、暴挙の影響から元老院内には少なからぬ反スッラ派が形成されていた。確実な政権樹立には、まず対外戦争に決着をつけるべきと考えたスッラは、同じコルネリウス一門出身で閥族派のルキウス・コルネリウス・キンナに後事を任せて、ミトリダテス戦争へ復帰した。
スッラの帰還と終身独裁官就任
紀元前86年、マリウスは7度目の執政官となったものの直後に死去し、新たに民衆派の指導者となったキンナは、事実上の独裁制を敷いた。キンナはミトリダテス6世討伐のため「正規軍」を同僚のフラックスに託して派遣。スッラはポントス勢力と「正規軍」の両方に挟撃され窮地に陥ったが、ミトリダテス6世軍に対して2度にわたり大勝した。
ミトリダテス6世はスッラの恫喝により講和に応じ、キンナが派遣した「正規軍」はスッラの策謀によって、戦わずしてスッラの軍勢に吸収された。これに危機感を覚えたキンナは、スッラ討伐のための軍団を集めたが、その過程で事故死した。こうしてスッラは妨害されることなく、イタリアへ上陸した。しかし、スッラによる報復を恐れた民衆派が必死になって抵抗したため、ローマへの帰還はさらに2年の歳月を要した。
マリウスとキンナ亡き後の民衆派は、その後もスッラに抵抗したものの既にスッラの敵ではなく、紀元前81年、ローマを奪還したスッラは終身の独裁官(ディクタトール・ペルペトゥア)に就任。元老院の定員を600名に増員したほか、その権限を強化し軍制の改革を断行する一方、民衆派を大規模に粛清した。この6年にわたる内戦で、ローマの犠牲者は数万人におよんだ。
第三次奴隷戦争
動乱の時期を経て、ローマは次第に元老院支配体制から、有力な個人による統治へと性質を変化させていった。
スッラの死後、ローマは紀元前73年から紀元前71年にかけて剣奴スパルタクスの反乱が起こったが(第三次奴隷戦争)、それを鎮圧したローマ一の大富豪でエクィテス(騎士)出身のマルクス・リキニウス・クラッスス、ローマ軍の重鎮でポントス王国の反ローマ戦争(第三次ミトリダテス戦争、前74年 - 前63年)を破ってミトリダテス6世を自殺に追いこみ、紀元前63年にセレウコス朝シリアを滅ぼし、シリアとパレスチナを平定したグナエウス・ポンペイウス、そしてマリウスの義理の甥として民衆派を指導していたガイウス・ユリウス・カエサルが台頭していた。
紀元前63年には、ルキウス・セルギウス・カティリナによる国家転覆計画が発覚したが、執政官マルクス・トゥッリウス・キケロは小カトの助力を得て首謀者を死刑とする判断を下し、元老院より「祖国の父」(pater patriae)の称号を得ている。一方、元老院は有力者であるポンペイウス、カエサル、クラッススの活動を抑えようとしたため、紀元前60年、3人は互いに密約を結び国政を分担する第一回三頭政治が実現した。
紀元前60年にはポンペイウスとクラッススが、紀元前59年にはカエサルが執政官となり、ポンペイウスはヒスパニア、クラッススはシリア、カエサルは未平定のガリアの特別軍令権を得て、それぞれを勢力圏とした。ポンペイウスは、東方で戦った自分の兵士への土地分配をおこなった。クラッススはパルティアとの戦争を受けもったが、紀元前53年のカルラエの戦いに破れてカルラエで戦死し、その首級はオロデス2世のもとに送られた。紀元前58年から紀元前51年にかけてのガリア戦争の成功により名声を挙げたカエサルには、ガリア統治権が委ねられた。
出典 Wikipedia
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