2019/08/06

第三次ポエニ戦争(2)

戦争の経緯
紀元前151年、カルタゴは二度の戦争で領土の大半を失ったにもかかわらず、ローマへの高額の賠償金を繰り上げて完済した。しかし、過去連年ライバル・カルタゴに悩まされてきたローマにとっては、かかるカルタゴの驚異的な経済力や復興力は脅威であり、ローマ内ではカトーを始め、ローマへの将来の禍根を断つ為、いつかカルタゴを徹底的に破壊すべき、という意見が増え始めた。

ところで、その頃、ヌミディア王マシニッサは、数度にわたりカルタゴ領土に国境侵害を繰り返し、町を襲撃したのでカルタゴはヌミディアの侵略に対抗すべく大規模な軍隊(25,000人)を召集したが、完敗してしまった。

その結果、ヌミディアとの間には、カルタゴは新たに50年間の賠償義務を負うことになったが、上述のような背景のあったローマは、ローマの承諾のない軍事行動は講和条約の違反とし軍隊を召集、カルタゴに開戦を示唆した。カルタゴは低姿勢で折衝を重ね、カルタゴの良家子息300人をローマに人質に差し出す条件で、国土と自治を許可されるとの約束を得たが、人質送還が履行されるとローマは軍団をウティカに上陸させ、 全ての武器と防具とを引渡せと要求を加えた。引渡しを終わると、ローマはさらに要求を加え、海岸の都を廃し、10マイル以上の内陸に遷都するようという、海洋国家カルタゴにとっては殆ど破滅的な事項を求めた。

カルタゴ市は、当時の都市国家カルタゴにとって数百年来の首都であり、同時に領土を大幅に縮小された同国にとって唯一の都市であり、しかも海洋貿易はカルタゴの繁栄と復興の源泉であった。したがって、それらを放棄して、しかも港湾の建設不可能な内陸部に新たに一から都市を創始するなどは都市国家カルタゴの消滅に等しく、カルタゴ人にとっては承諾の不可能な要求であった。

既にカルタゴは完全に武装解除され丸裸同然の状態だったが、最後のローマの要求は拒否し、ローマ軍によるカルタゴ攻撃戦が始まった。これが第三次ポエニ戦争である。

開戦と同時に町は包囲されたが、紀元前149年に始まるこの包囲戦に、カルタゴは紀元前146年の春まで持ちこたえた。しかし完全包囲下にあり、食料も他物資も補給のないカルタゴ側は次第に追い詰められ、最後は嵐も加勢しスキピオ・アエミリアヌスによって町は陥落した。アエミリアヌスは、かつて繁栄したカルタゴの町が陥落し炎上する光景を目にし、現在栄華を誇るローマもいつかは同じ運命を辿るであろうことを考え、歓喜ではなく悲嘆の心情を手記に記している。

結果
包囲戦の後半には、多くのカルタゴ人が餓死した。さらに戦いの最後の6日間には、多くの戦死者が出た。戦後に残されたカルタゴ人の数は5万人で、戦前に比べると僅かな数だったが、全て奴隷として売られることになった。

町は、10日間から17日間ほどで手際よく焼き払われた。町の壁や建物、港は完全に破壊され、一説によると周辺の土地は作物が育たぬようにと塩が撒かれた(塩土化)とも言われる。

残されたカルタゴの領土はローマに併合され、ローマのアフリカ属州を形成した。なお、フェニキア人によって建設されたカルタゴ市は、ローマ軍によって完全に破壊されてしまったため、現存するカルタゴの遺跡は、その後カエサルが再建させた植民都市時代以降のものである。

この戦争で、ローマが地中海世界の完全な覇者たる傾向はますます強まっていったが、ローマの体制自体が、このような状況に適応しておらず、従来の共和制は行き詰まり、社会不安が急速に増大していくことになる。

海外の属州で得た広大な土地や戦争捕虜からなる莫大な奴隷の労働力で大規模農場を経営する(ラティフンディウム)富裕層が出現する一方で、海外の安価な農作物がローマ本国の市場に大量に流れ込み、これに対抗できない中小農場経営者の多くが破産し多数の無産市民もまた出現したのである。更に一定の資産を持つ市民が従軍する市民兵によって構成されていたローマ軍にとって、資産を持たない市民の急増は組織的劣化に直結するものであった。

こうしてローマの膨張と共に貧富の格差が拡大することでローマの市民社会、及び国家は分裂の様相をみせはじめ、軍の弱体化も顕著になっていく。これに対処せんと、スキピオ・アエミリアヌスの義弟(妻の弟達)であるグラックス兄弟は政治改革を目指すも、保守派の反撃によって失敗に終わり(アエミリアヌスも又、グラックス兄弟と敵対する保守派の代表的人物であった)、以降、ローマ人同士の抗争が頻発する混乱期が訪れることになる(内乱の一世紀)
出典 Wikipedia

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