2019/10/02

プラトン(15) ~ イデア論(3)


だが、当時は、相対主義が幅をきかせる時代である。
世の中の知識人たちは、
『そんなものは、人それぞれの相対的なものだ』
と述べる。

たしかにそうだ。
ある国では、「転んでいる人を助け起こすこと」は『善』とされているが、
別の国では、助けるとその人のためにならない、という理由で「助け起こすこと」が『悪』とされており、むしろ「助け起こさないこと」の方が『善』とされていることだってある。

だから『』なんて、国や時代や人によって変わるもので『絶対的な善』『本当の善』なんてものは存在しないのだ。

それはとっても妥当で理性的な考え方で、くつがえりそうもなさそうだ。

だが、プラトンは、それでも考え続けた。
自分が考えるのを止めてしまったら、師匠のやってきたことがすべて無駄になってしまう。

「ちがう、ちがう!
きっと、どこかに万人に共通な「本当の善」「本当の美」があるはずなんだ!
 それが一体、何なのか、自分は探求し続けるんだ!」

苦悩の末、やがてプラトンは、はっと気が付く。

「・・・待てよ。
 『善は、相対的で、人それぞれだ』と言いつつも、みんなは『』という共通の言葉(概念)を使って話しているじゃないか。

 たしかに
『善』なる行いとは何か?
を問えば、それは人それぞれだ。
 だが、それぞれが述べた『善』という言葉から受けるイメージは、みな『同じもの』じゃないか!

 『』という言葉を聴いたとき『みんなが共通して思い浮かべるイメージ』は、いったい、どこから来たんだ!!?」

たとえば、目の前に三角形の石がある。
あの石は、「三角形だ」という人もいれば「角が少しかけているし、ぜんぜん三角形に見えないよ」という人もいる。

相対主義者たちによれば、

「万人が認める『三角形の石』など存在しない。
 だから、『本当の三角形』など存在しない」

ということになる。

また、一見すると『三角形』にみえる石があったとしても、どんどん拡大してよく見ていけば、いつかは線がまがっていたり、角が丸まっているのが、見えてくるわけで、いわゆる『完璧な三角形』というのは、現実には存在しないのは明白だ。

だが、プラトンは、こう考える。

「たしかに、この世界には『完璧な三角形』『本当の三角形』は、現実のものとして存在しない。でも、だからといって『完璧な三角形』『本当の三角形』は存在しない、と言ってしまって良いのだろうか?

 いや、違う!

 俺たちは、『完璧な三角形』なんて見たことはない。でも、俺たちは、『完璧な三角形』『本当の三角形』がなんなのか、たしかに知っている。
 
 だって、『完璧な三角形』がなんなのか知っているからこそ『あの石は、完璧な三角形じゃない』と言えるんじゃないか!

 それなのに、『完璧な三角形』『本当の三角形』は存在しない、と言ってしまって良いのだろうか?

 そもそも、『存在する』ということが『みんなが共通して、見たり触れたりできるもの』のことであるなら『三角形』とか『四角形』とか『円』とか『みんなが共通して、理解したり認識できるもの』だって、ひとつの『存在』として認めてやってもいいんじゃないだろうか!?

 思い切って、そういうものも『存在している』と言ってしまってもいいんじゃないだろうか!?」

こうして、プラトンは『三角形』『四角形』『善』『愛』『正義』といった「万人が共通して思い浮かべられる何か」「現実には存在していないのに、なぜかみんなが意味を理解している何か」を「イデア」と名づけ、それが『存在している』と主張した。(イデア論)

たしかに、相対主義者が言うように、時代や国が変われば『善』とされるものも変わっていく。

だが、どんなに時代や国が変わっても『善』と言われたときに、頭に思い浮かべるイメージそのものは、決して変わらないだろう。どんなに時を経ようと『善』という概念は、永遠普遍なのだ・・・

「倒れている人を助け起こす人」「あえて助け起こさない人」
行動としては、まったく正反対である。
でも、どんなに「行動」が違っていても、それを行うときに、その人が目指している『』は、共通の同じものである。

だとするならば「絶対的な善」「本当の善」というものが、この世界に存在している、と言っても良いのではないだろうか。

 この「イデア論」という考え方を初めて聞いたとき、とても強く感銘を受ける人もいれば「なんだ、そんな程度の話か」と思う人もいるだろう。イデア論について、受ける印象や評価は人それぞれである。

しかし「本当の善」「本当の何か」を探求しようと叫び、その志なかばで死刑となった哲学者の意志を引き継いだ若者が、当時の常識的な考え方(相対主義)に負けないで、イデア論という新しい考え方を創り出したという「哲学的な精神」には、間違いなく大きな価値がある。

その後、プラトンは、アカデメイアという学校をつくり、生涯を後進の育成に励み、最後は本を書きながら亡くなったといわれる。

ソクラテスから始まった熱い探求の火は、プラトンに受け継がれ、そのプラトンが作った学校は、900年ものあいだ若い哲学者たちを育てていくのである。

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