2019/10/10

ディオゲネス(1) ~ 酒瓶に住んだシノペのディオゲネス



 ソクラテスの弟子であり、キュニコス学派の祖であった「アンティステネスの弟子の筆頭」に「シノペのディオゲネス」という人がいます。

この人は「酒瓶」を住みかとしていたとして、別名「酒瓶のディオゲネス」と紹介されて良く知られています(「酒樽」と言われることが多いですが、当時は木製の「樽」というのは存在せず、酒は土製の大瓶に入れられていました)

一般に彼が有名となったのは、その奇行からで、たとえば食事をするのが恥ずべきことではないのならば、どんなところで食事をしてもいいだろうと言って、当時にあっては非常識なところで食事をしたり、同様のことが性的なことについても行われたり、ということが面白おかしく伝えられたからです。

これは彼が「社会常識に意図的に戦いを挑んだ」その表現なのですが、現代の哲学史は理論のない「ただの奇人」として殆ど問題にせず、少し詳しい哲学史でも「実践を旨とするキュニコス学派の代表的人物」として名前が挙げられる程度です。

 しかし、このディオゲネスは古代ギリシャ末期の当時からローマ時代を通して「第二のソクラテス」として、ソクラテスの精神を受け継ごうとした人々に「ソクラテスに次ぐ模範」とされていたのでした。

私たちとしては、時代の精神を表している人として、あるいは古代にあっての哲学の理解、つまり「人生の形成としての哲学」の代表者として、重要な人物の一人であると考えます。

シノペのディオゲネス
 さて、このシノペのディオゲネスの「シノペ」というのは、彼の故郷を指しています。黒海の南岸、現在のトルコ領となり、現在まで健在の町で「スィノップ」と呼んでいる町がそうなります。当時はギリシャ・ポリスですが、アテナイからは非常に遠い所となります。
 
このディオゲネス以降、古代ギリシャ哲学の担い手達は、ほとんどがアテナイの出身者ではなくなり「全ギリシャ文化世界」からの出身となってきます。「全ギリシャ文化世界」とは、紀元前300年以降のアレクサンドロス大王によってエジプト、ペルシャなどがギリシャに融合されて、当時の西方世界が一つとされた「ヘレニズム時代」を意味します。
 
そのはしりが、このシノペのディオゲネスというわけなのでした。実際、彼によって古代ギリシャの最大の特質であったポリス社会に代わる「脱ポリスの思想としてのコスモポリテース(世界市民)」という概念が言われてくるのであり、そうした意味でも重要な人物なのでした。

ディオゲネスの生涯
 このシノペのディオゲネスの生涯ですが、ディオゲネス・ラエルティオスは、デメトリオスという人が伝えているところによると、その死んだ年はアレクサンドロス大王と同じであったと言われている、と伝えています。それだと「紀元前323年」ということになります。

 また別に、彼は90歳近くで死んだと伝えられ、また第113回オリンピック期(紀元前324~321)には、すでに老齢であったと伝えられています。これらを総合すると、やはりこの323年頃に90歳近くで死んだということになりそうです。

 そうすると生まれた年ですが、死んだ時90歳近くとすると、生まれはおよそ前412年頃となり、プラトンより15歳くらい若いことになります。これはアンティステネスの弟子としても、頃合いの年齢となります。

ただし、彼はアテナイ人ではないので、プラトンと同じ経験をしてはいません。また、当時のシノペの状態がどのようなものであったのかも、詳しくはわかりません。したがって、彼がどういう少年時代を過ごしたのかも分かりません。ただ、後年の彼は「世界市民」という、ポリスを超越した考え方を言いだしていることからすると、シノペも穏やかで安定したポリスの状況にはなかったのかもしれません。

 若い時、彼は故郷のシノペにあって父親と同じく両替商を営んでいたようですが、その父親かあるいはディオゲネス自身かが貨幣を変造したことで追放され、アテナイに流れてきたようでした。逸話に、彼がその事で非難されたとき、確かにかつての自分は君と同じようなやくざ者だったが、しかし君は今ある自分のようには決して成れないだろうと切り返した、などというのがあるのでご本人であったのかもしれません。

 従って、多分彼が有名になってからのことでしょう、神アポロンが神託でディオゲネスに向かって「ノミスマ(社会制度・慣習の意ですが、また通貨ともなります)を作り替えろ」と言ったのを、アポロンは社会慣習・制度のつもりだったのに、ディオゲネスが誤解して通貨を作り替えてしまったのだ、などという逸話も作られようでした。

もちろん、実際に彼がやったことは「社会慣習・制度の方のノミスマ」のひっくり返しであって、これと「貨幣のノミスマの変造」がうまくゴロがあうということで作られた逸話となるでしょう。

 彼がアテナイにやってきた時期ですが、それが幾つくらいの時なのかは全く分かりませんが、一人で来たとするならすでに青年期以降でしよう。ともかく彼はアテナイに流れてきて「アンティステネスを知り、彼に惹かれた」のでした。

もちろんソクラテスは、もうすでに生存していません。アンティステネスは、彼についての章でみておいたように厳しい人で、やたら弟子をとらなかったわけですが、この時も杖を振り上げてディオゲネスを追い払おうとしたと言います。しかしディオゲネスは「どんな硬い杖であろうと自分を追い出すことはできないであろう」といって頭を差し伸べたので、アンティステネスは彼を弟子としたと言います。

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