2019/10/04

帝政ローマ ~ 内乱の一世紀(8)

カエサル暗殺
クラッススの死後、カエサルの台頭を危険視したポンペイウスは、それまで対立していた元老院と妥協し、ポンペイウスとカエサルは完全に対立するようになった。元老院は、ポンペイウスと結んでカエサルを「公敵」であると宣言、それに対しカエサルは紀元前49年、ルビコン川を渡ってローマを占領、内戦が始まった。ファルサルスの戦いを経た後、エジプトに逃れたポンペイウスは、プトレマイオス13世の側近により殺害された。

ポンペイウスを追ってエジプトに着いたカエサルは、クレオパトラ7世をプトレマイオス朝の王位につけて、圧倒的な民衆の支持を背景にローマの権力を一手に収めると、紀元前46年に終身独裁官となり、属州の徴税請負人の廃止、無産市民の新植民地市の建設、ユリウス暦の制定など、急進的な政治改革を推進した。大がかりなモニュメントがつくられ、イベントも開催された。

しかし、こうした大胆な改革と専制的な独裁は元老院を中心とする国内の共和派の反感を買い、紀元前44年、反対派の元老院議員達によって暗殺された。

カエサルの大甥にあたり、事後を託されたガイウス・オクタウィウス・トゥリヌスは、カエサルの腹心であったマルクス・アントニウス、カエサルの副官で最高神祇官のマルクス・アエミリウス・レピドゥスの助けを借りて、反カエサル派の元老院議員を一掃した。3人は「国家再建三人委員会」を市民集会によって認定させて、正式な公職として発足させた(第二回三頭政治)。

しかし、紀元前42年のフィリッピの戦いなどにより、長年の政敵キケロやカエサル暗殺の首謀者ブルトゥス、カッシウスなどの共和派の巨頭が一掃されると、アントニウスとオクタウィアヌスの間で主導権をめぐって対立が深まった。紀元前40年にはブリンディシ協定が結ばれ、ローマの勢力範囲を三分することになり、この時アントニウスはヘレニズム世界、オクタウィアヌスは西方全域、レピドゥスはエジプトを除くアフリカ全域の統治を任されている。

紀元前36年、シチリアで最後の反カエサル派で、ポンペイウスの次男セクストゥス・ポンペイウスとオクタウィアヌスとの戦い(ナウロクス沖の海戦)があった後、レピドゥスはオクタウィアヌスの打倒を図って失敗、同年失脚した。

アントニウスとオクタウィアヌスの対立は、再び内戦へと発展した。オクタウィアヌスは、エジプトの女王クレオパトラ7世と組んだアントニウスを紀元前31年アクティウムの海戦で撃ち破り、翌紀元前30年にはアントニウスが自殺して「内乱の一世紀」と呼ばれた長年にわたるローマの混乱を収拾した。一方、300年続いたプトレマイオス朝エジプトが滅亡、ローマに併合されて地中海世界の統一をも果たした。

オクタウィアヌスは戦争後の処理がすむと、非常時のためにゆだねられていた大権を国家に返還する姿勢を示したが、紀元前27年、救国の英雄となったオクタウィアヌスは元老院より「アウグストゥス(尊厳なる者)」という神聖な称号を受けた。自らは「プリンケプス」(第一市民)を名のったものの、事実上は最初の「皇帝」となり、カエサルの諸改革を引き継いでいくこととなった。帝政ローマの始まりである。

結果
慎重なオクタウィアヌスは、すでに政敵がいないにもかかわらず一度権力を返還し、元老院によって再び譲渡されるという形式をとり「インペラトル・カエサル・アウグストゥス(Imperator Caesar Augustus」の称号を許された。オクタウィアヌスは共和政の伝統のもとに、合法的な個人支配を確立したのである。ここで始まった帝政ローマ前期の政治体制は、元首政(プリンキパトゥス)と呼ばれる。オクタウィアヌスは内乱後の秩序の回復に努め、ローマ市を整備して属州統治に尽力したほか「市民は戦士である」という原則を復活させた。これにより「ローマの平和」という繁栄と安定の時代がもたらされるのである。

内乱の一世紀」は、ポプラレス(民衆派)とオプティマテス(閥族派)という対立の図式を基本として展開されてきた。

ポプラレス(populares)は民会を自らの政治基盤とし、古代ローマ社会唯一の権力集合組織であった元老院の政治力に立ち向かおうとした勢力である。グラックス兄弟、マリウス、クラッスス、ポンペイウス、カエサル、そしてカエサル配下のオクタウィアヌス、レピドゥス、アントニウスがいる。ポプラレスたちの支持基盤は民会および市民集会にあり、プレブス達の歓心を買うため、自由ではあるが貧しい市民の社会保障や雇用に力を入れ、とくに無料でパンを配布するなど救貧活動を展開することが多かった。このほか、既存勢力に敵対したポプラレスは、ローマ市民権の拡大や軍団の私兵化によって自らの勢力の増強を図った。

市民権の拡大は、増加した新市民を自らの勢力とすることが期待でき、また私兵化した軍団は自身の政治目的実現のための実力となりえた。ローマ市民権を持つ自由民には人気が高かったが、既存勢力である元老院とは対立し、しばしば対抗権力として護民官の制度を活用した。カエサル暗殺後は、ポプラレス同士であるオクタウィアヌスとアントニウスの権力闘争となった。

オプティマテス(optimates)とは、こうしたポプラレスに対抗した人々を指した。元老院は「父祖の遺風」と呼ばれる伝統的保守的傾向の強いローマの政治風土のもと、強い影響力を保持していた。既得権を有したノビレスを中心にポプラレスへの反対者は多く、これらの人びとは従来のローマの伝統の維持を求めた。したがって、軍の私兵化や元老院を凌駕する政治力を身につけようとする個人の台頭を警戒した。スッラやキケロが代表者である。

「内乱の一世紀」は、グラックス兄弟の改革の挫折より始まって、オクタウィアヌスによる帝政開始で終わりを告げた。見方を変えれば、これはポプラレスによる元老院、およびオプティマテスに対する挑戦と最終的な勝利への過程ととらえることも可能である。ただし、オクタウィアヌスの慧眼と周到さは、この内乱の性質と経緯をよく見定めていた。自らへの権力集中が、決して君主政への逆行ではないことを行動であらわし、オプティマテスに属する人びとの不安と懸念を和らげる配慮を示したのである。
出典 Wikipedia

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