2022/12/13

西ローマ帝国の滅亡(5)

東ローマ帝国による征服事業

テオドリックが526年に没した時、もはや東ローマ帝国は西ローマ帝国とは文化的には別物になっていた。西ローマ帝国では、古代ローマ式の文化が維持されていたのに対し、東ローマ帝国では大幅にギリシャ化が進んでいた。また、東ローマ皇帝にとって「皇帝」の名に反して、帝国の首都ローマを支配していない事実は容認し難い事であった。ローマ市は西方正帝が廃止された後も、名目上は帝国の首都(caput imperii)として君臨した。

 

東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス1世は、西ローマ帝国の地を彼らが蛮族と呼んだ人々から奪還しようとして幾度かの遠征をおこなった。最大の成功は、二人の将軍、ベリサリウスとナルセスが535年から545年に行なった一連の遠征である。ヴァンダル族に占領された、カルタゴを中心とする北アフリカの旧西ローマ帝国領が東ローマ皇帝領として奪回された。遠征は最後にイタリアに移り、ローマを含むイタリア全土と、イベリア半島南岸までを征服するに至った。ユスティニアヌス1世は、テオドシウス1世から約150年ぶりに、西方領土と東方領土の両方を単独で実効統治するローマ皇帝となったのである。

 

しかし皮肉にも、ユスティニアヌスによる「皇帝」の権威回復は「帝国」の解体を促進した。ユスティニアヌスによる長年に渡る征服戦争が経済的にも文化的にも西ローマ帝国に深刻すぎる損害を与え、「ローマによるローマ帝国」という理念を信じていた西ローマ帝国の人々を幻滅させる結果となったからである。西ローマ帝国で保たれていた古代ローマの伝統や文化は、その多くが失われることとなった。もはや帝国の租税台帳は更新されなくなり、ゲルマン王の統治下で繁栄していた地中海交易も姿を消した。

 

帝国の人口減衰率は約50%と推定され、プロコピオスは「いたるところで住人がいなくなった」と記し、ローマ教皇ペラギウス1世は「誰一人として、その復興を果たしえない」と農村の荒廃を強調した。一説には、東ローマ帝国が最終的にローマを手に入れた時、ローマ市の人口はわずか500人ほどになっていたともいう。この惨状について、6世紀末のローマ教皇グレゴリウス1世は、「いま元老院はどこにあるのか、市民はどこにいるのか」と嘆いている。しかしながら東ローマ皇帝にとっては、一時でもローマを支配しえた事は、東ローマ皇帝がローマ皇帝を名乗り続ける精神的な拠り所のひとつになった。

 

ユスティニアヌス1世によって獲得された西方領土は、彼の死後には急激に東ローマ皇帝の手から離れていった。さらに、ギリシア語圏の東ローマ帝国とラテン語圏の西ローマ帝国の文化的な差異や宗教対立が大きくなると、2つの区域は再び競争関係に入った。マウリキウスは次男ティベリオスを597年に西方正帝と指名して西方領土の維持に固執したが、そのマウリキウスも602年にフォカスの反乱によって殺されてしまう。この後、サーサーン朝やイスラム勢力による侵攻激化も加わり、混乱状況を乗り越える中で東ローマ帝国の国制は大きく変容し、古代ローマ的な要素は失われていくこととなる。

 

言語

東方領土でラテン語が死語になった後も、西ローマ帝国の大部分の地域ではラテン語が何世紀にも渡って維持された。いわゆるゲルマン語などからの影響は、軍事に関する数語の借用語に限られていた。時代が下ると、ラテン語は8世紀頃から12世紀頃にかけて緩やかに変化し、地方ごとの分化が明らかになっていった。こうして地方ごとに分化したラテン語の方言が現代のロマンス諸語で、それらは中世においては単に「下手なラテン語」の一つだった。

 

識字率は大幅に低下したが、公式文書や学術関係の書物は引き続きラテン語で記され続けた。西方でギリシア語の地位が失われたために、リングワ・フランカとしてのラテン語の地位は向上した。ラテン文字は、JKWZが付け足され、文字数が増えた。

 

10世紀になるとヨーロッパにアラビア数字が伝えられ、ローマ数字は、たとえば時計の文字盤や本の章立てにおいては依然として使われ続けたものの、16世紀頃にはほとんどがアラビア数字に取って代わられた。ラテン語は今でも医学・法律学・外交の専門家や研究者に利用されており、学名のほとんどがラテン語である。ミサの挙行では、1970年まで古典ラテン語が使われていた。また、ラテン語は英語、ドイツ語、オランダ語などのゲルマン語派にも、ある程度の影響を及ぼしている。

 

宗教

西ローマ帝国の最も重要な遺産は、カトリック教会である。カトリック教会は、西ローマ帝国におけるローマの諸機関にゆっくりと置き換わっていき、5世紀後半になると蛮族の脅威を前に、ローマ市の安全のために交渉役さえ務めるようになる。ゲルマン系の民族は、たいていアリウス派の信者だったが、彼らも早晩カトリックに改宗し、中世の中ごろ(9世紀~10世紀)までに中欧・西欧・北欧のほとんどがカトリックに改宗して、ローマ教皇を「キリストの代理者」と称するようになった。西ローマ帝国が帝国としての政治的統一性を失った後も、教会に援助された宣教師は北の最果てまで派遣され、ヨーロッパ中に残っていた異教を駆逐したのである。

 

単独の支配者による強大なキリスト教帝国としてのローマという理念は、多くの権力者を魅了し続けた。フランク王国とロンバルディアの支配者カール大帝は、800年にローマ皇帝として推戴されると、教皇レオ3世によって戴冠された。これが神聖ローマ帝国の由来であり、それはラテン的教養とカトリックを紐帯としてローマ人貴族層によって受け継がれてきたローマ理念の具象化であった。こうした理念から、オットー3世は古代の皇帝たちに倣ってパラティーノの丘に造営した宮殿に住まい、ローマ市を中心とした帝国を指向したし、フリードリヒ1世やフリードリヒ2世も「ローマ皇帝」の名目からイタリア半島の支配に固執した。

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