2022/12/03

西ローマ帝国の滅亡(4)

東西宮廷の対立と西ローマ皇帝の廃止

ホノリウスがテオドシウス1世によって西方を任された当初から、西方の皇帝は複雑で困難な状況に直面しなければならなかった。

 

ホノリウスはテオドシウスが連れてきた皇帝であって、西ローマ帝国で宣言された皇帝ではなかったので、ホノリウスは西ローマ帝国の伝統的な勢力からは攻撃に晒されることになった。さらにホノリウスは、マケドニアとダキアの統治を巡って東帝アルカディウスとも争うことになった。両管区は、エウゲニウスの時代までは伝統的に西帝の担当とされていたのだが、東帝テオドシウス1世が西帝エウゲニウスとの争いの中で両管区を支配下に置き、以後そのまま東ローマ帝国が実効支配を続けていた。

 

西の宮廷は両管区の返還を求めていたが、この問題に東の宮廷は敏感に反応した。ゴート人のアラリックが、西ローマ帝国で略奪を働き東ローマ帝国へと逃亡すると、西方の軍司令官スティリコはアラリックを追撃したが、これに対し東の宮廷は「それ以上の追撃は、東方への侵略とみなす」と警告してアラリックの逃亡を手助けした。また397年には、東の宮廷の官僚エウトロピウスがアフリカ軍司令官のギルドーを唆し、ローマへ供給されるはずだった食料をコンスタンティノープルへ横流しさせるという事件も発生した。同時にホノリウスは蛮族(とりわけヴァンダル族と東ゴート族)の侵入にも悩まされ、410年には西ゴート人によって首都ローマが掠奪された(ローマ略奪)。この時、西ゴート人を率いていたのは前述のアラリックだった。

 

ウァレンティニアヌス3世の時代には、状況は更に複雑になった。438年に発布された「テオドシウス法典」は東帝テオドシウス2世と西帝ウァレンティニアヌス3世との連名で発布され、理念上はローマ帝国の東西が一体であることを強調するものであったが、テオドシオス法典の発布後、実際にはローマ法がローマ帝国の東西で徐々に分裂を始めた。現実問題として、東方ではローマの法が実施されなくなり、同様に西方でもコンスタンティノープルの法が実施されなくなった。

 

450年にテオドシウス2世が没すると、東ローマ帝国ではゲルマン人の将軍アスパルがウァレンティニアヌス3世に無断でマルキアヌスを皇帝の座に据えたが、ウァレンティニアヌス3世は452年頃までマルキアヌスに正式な皇帝としての承認を与えなかった。こうした東西宮廷の分裂に加えて、皇帝権そのものにも更なる分割が加えられた。

 

440年にレオ1世がローマ教皇となると、グラティアヌス以前には皇帝が名乗っていたポンティフェクス・マクシムスの称号を教皇が名乗るようになり、皇帝に代わって教皇が帝国における宗教や祭礼の最上位の保護者として、神法の遵守を監督するようになった。さらに445年には、ウァレンティニアヌス3世によって「教皇が承認したこと、あるいは承認するであろうことは全て、万民にとっての法となる」とも定められた。

 

こうした特権の付与が積み重ねられていった結果、教皇は帝国の代表者として、452年にはフン族と、455年にはヴァンダル族と、591年および593年にはランゴバルド族と、それぞれ皇帝を無視したまま単独で交渉を行うようになった。いずれにせよ、教皇は5世紀末までには西方において皇帝と同等の役割をこなす存在となっていた。

 

軍事の面においても帝国で重要な役割を果たしていたのは、皇帝ではなくアエティウスのような蛮族出身の将軍たちであった。そしてアエティウスら将軍の活躍を支えていたのも、皇帝の指揮系統に属する正規のローマ軍団ではなく、ブッケラリィと呼ばれる将軍の私兵たちであった。西ローマ帝国において、皇帝の果たす役割は限りなく小さなものとなっていた。

 

ゲルマン人の将軍リキメルが帝国の実権を握った時代になると、皇帝が不在のまま放置されることすらあり、もはや西ローマ帝国では皇帝は傀儡としてすら必要とはされていなかった。

 

475年、東ローマ皇帝レオ1世によって送り込まれたユリウス・ネポスが、軍司令官オレステスによってラヴェンナから追放され、オレステスの息子ロムルス・アウグストゥルスが皇帝であると宣言された。ネポスはダルマチアへと亡命し、いくつかの孤立地帯においてユリウス・ネポスを支持する勢力の活動が続いたものの、ネポスにせよアウグストゥルスにせよ、西ローマ帝国全域における皇帝の支配権はとうに失われていた。

 

最後の皇帝

476年にオレステスが、オドアケル率いるヘルリ連合軍に賠償金を与えることを断ると、オドアケルはローマを荒掠してオレステスを殺害し、ロムルス・アウグストゥルスを退位させ、元老院を通じて「もはやローマに皇帝は必要ではない」とする勅書を東ローマ帝国の皇帝ゼノンへ送り、西ローマ皇帝の帝冠と紫衣とを返上した。ゼノンは、彼の政敵ロムルス・アウグストゥルスを倒した功績としてオドアケルにパトリキの地位を与え、オドアケルをローマ帝国のイタリア領主(dux Italiae)に任じた。

 

一方、オレステスによって追放されたユリウス・ネポスは、まだダルマチアの残存領土で引き続き西ローマ帝国の統治権の保持を宣言しており、東帝ゼノンも一応はネポスを正当な西帝として支持していた。そこでゼノンは、オドアケルにはユリウス・ネポスを西帝として公式に承認すべきだとの助言を与えた。元老院は西方正帝の完全な廃止を強硬に求めたが、オドアケルは譲歩して、ユリウス・ネポスの名で硬貨を鋳造してイタリア全土に流通させた。だがこれは、ほとんど空々しい政治的行動であった。

 

オドアケルは、主権を決してユリウス・ネポスに返さなかったからである。ユリウス・ネポスが480年に暗殺されると、オドアケルはダルマチアに侵入して、あっさりとこの地を平定してしまう。東帝ゼノンが正式に西方正帝の地位を廃止したのは、このユリウス・ネポスの死後のことである。とはいえ、6世紀末から7世紀初頭にかけて、皇帝マウリキオスや教皇グレゴリウス1世らが西方正帝の設置を検討したように、東西に広がるローマ帝国を必要に応じて複数の皇帝で分担統治するという考え方そのものは、直ちに失われたわけではなかった。

 

オドアケルとテオドリック

西方正帝の廃止によって、西ローマ帝国に何らかの変化が齎されることはなかった。ゼノンもオドアケルも特別な変革を行うことはせず、西ローマ帝国の政府や諸機関、諸制度による統治はそのまま維持された。オドアケルの統治下で西ローマ帝国の内乱は終息し、地震によって損壊したままとなっていた古代ローマの建造物も修復が始まり、帝国は一時の復興を遂げることとなった。ゼノンにとって、オドアケルは政敵ロムルス・アウグストゥルスを倒した功臣であったので、二人の関係は当初は非常に良好であった。しかし、ゼノンとオドアケルは主に宗教的理由により徐々に対立するようになり、488年にゼノンは東ゴート王テオドリックにオドアケル討伐を命じた。

 

テオドリックはイタリアへ侵攻して度々オドアケルを打ち破り、493年にイタリアを占領してオドアケルを殺害した。ゼノンは既に491年に死亡していたが、テオドリックは東ローマ皇帝アナスタシウス1世より副帝およびイタリア道の軍司令官に任ぜられた。また、497年にはイタリア王を称することが許され、ここに東ゴート王国が創設された。ただし、東ゴート王国はローマ帝国から独立した王国というわけではなく、オドアケルの時代と同様に、その領土と住民は依然としてローマ帝国に属しており、民政は引き続き西ローマ帝国政府によって運営され、立法権はローマ皇帝が保持していた。

 

オドアケルとテオドリックの統治下において、シチリア島の一部がヴァンダル族から帝国へと返還され、アフリカからの食料供給や地中海沿いでの交易が再開されたことにより、ローマの人口は40万人ほどにまで回復した。オドアケル、テオドリックと優秀な統治者が続いたこともあり、西ローマ帝国は「金の財布を野原に落としても安全である」と称えられるほどの繁栄の時代を迎えた。

出典 Wikipedia

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