2025/01/04

レコンキスタ(4)

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イスラムのイベリア半島進出

 シリアのイスラム帝国(ウマイヤ朝)は東ローマ帝国からエジプトを奪還し、西方のマグリブ(日が没するところ:チュニジア、アルシェリア、モロヅコなどの北アフリカ)に向かって進撃を開始した。698年にカルタゴを占領、707年にはモロッコを制圧した。

 

 711年、ウマイヤ朝のアフリカ総督ムーサーは、分裂状態にある西ゴート王国の攻略を決断し、部下のターリクにイベリア半島進出を命じた。ターリクは7000人の部隊を率いてジブラルタルに上陸、迎え撃つ西ゴート軍をグアダレーテ川付近で撃破した。この戦いで西ゴート王ロドリーゴは戦死し、勢いに乗ったイスラム軍は、トレドやコルドバ、ムルシアを攻略した。

 

 翌年、ムーサーは自ら18千の軍勢を率いてジブラルタルに渡った。数ヵ月かけてセビリアを攻略し、メリダやマラガを征服した。ムーサーはトレドでターリクと合流し、両軍はサラゴサ、タラゴーナ、バルセロナ、リスボンを制圧した。

 

【ジブラルタル】ジブラルタル海峡の入口にある岩山は、対岸のモロッコの山とともに「ヘラクレスの柱」と呼ばれた。ターリクがイベリア半島に侵入すると、この岩山はターリクの山(ジャバル・アル・ターリク)と呼ばれ、それがジブラルタルになった。ジブラルタルはスペイン継承戦争後イギリス領となり(1713)、今日に至っている。

 

アル・アンダルス

 わずか数年で、カンタブリア山脈とピレネー山脈を除くイベリア半島の大部分がイスラムの支配下となり、アル・アンダルス(al-Andalus)と呼ばれるウマイア朝の属州が生まれた。首都はコルドバにおかれた。勢いに乗るイスラム軍はピレネー山脈を越えてフランスに進出した。フランス南部を制圧し、ツールを目指して北上するイスラム軍をフランク王国のカール・マルテルが迎え撃った(732年、トゥール・ポワティエ間の戦い)。この戦いでイスラム軍は敗れ、破竹の進軍は止まった。

 

 ダマスカスのウマイヤ朝はアミールと呼ばれる総督をアル・アンダルスに派遣してイベリア半島を統治した。しかし、征服者のイスラム教徒は一枚岩ではなく、アラブ人とベルベル人の対立やアラブ人とシリア人の確執などがあった。そのため、アル・アンダルスの政情は不安定で、716741年の間に15人もの総督が交代した。

 

 アル・アンダルスの住民は、ほとんどがキリスト教徒だった。一部の住民はイスラム教に改宗したが、大半の住民は人頭税(ジズヤ)を払ってキリスト教を信仰していた。

 

後ウマイヤ朝

 750年、シリアで政変が起こり、ウマイヤ朝がアッバース朝に倒された。ウマイヤ朝の王族はことごとく殺されたが、ただ一人生き残ったアブド・アッラフマーン1世はモロッコ経由でイベリア半島に逃れた。彼は756年にコルドバでアミールを宣言し、ウマイヤ朝を再興した。これが後ウマイヤ朝である。後ウマイヤ朝は徐々に力をつけ、778年にはフランク王カール・マルテルの進入を撃退した。この戦いはローランの歌のモデルになった。

 

 929年、第8代アブド・アッラフマーン3(Abd ar-Rahman)は、自らカリフを名乗りイスラム世界の最高指導者であることを宣言した。彼の時代が王朝の最盛期で、北部のカスティリャやアラゴンなどのキリスト教国を圧倒し、エジプトのファテーィマ朝と北アフリカの領有権を争うなど活発な対外活動を行った。

 

 この頃、東方から多くの文化人がイベリア半島に移住し、ヨーロッパにサラセン文化を伝えた。首都コルドバは、バグダッドやカイロとともに文化の中心地で、メスキータと呼ばれる大モスクが建設された。コルドバで開花したイスラム文化は、後にラテン語に翻訳されてイタリアに伝わり、ルネッサンスの礎となった。

 

 栄華をきわめた後ウマイヤ朝も権力闘争によって衰退し、1031年に最後のカリフが廃位されて滅亡した。アル・アンダルスは、セビリア、トレド、サラゴサ、バレンシアなど約30のイスラム小王国に分裂した。

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