源信僧都の生い立ち
源信僧都は、今から1082年前、平安時代の中頃の942年に、大和国(今の奈良県)の当麻(たいま)という里にお生まれになりました。
お父さんを卜部正親(うらべまさちか)といい、お母さんは、清原氏でした。2人の間には、女の子が2人あったのですが、男の子は生まれませんでした。
ある晩、お母さんは、僧侶から美しい玉を手渡される夢を見ました。
その後、玉のような男の子が生まれ、「千菊丸(せんぎくまる)」と名づけました。それが後の源信僧都です。千菊丸は正直な性格で、ずば抜けて賢く、すくすくと育っていきました。
7才、お父さんの死
ところが、7才の時、お父さんが重い病にかかります。
もう回復の見込みはないと覚悟したお父さんは、千菊丸を枕元に呼んで、
「幼いそなたを残して、この世を去らなければならないのは残念でならない。お父さんの亡き後は、どうか出家して僧侶になってもらいたい、これは遺言だ」
と言って、帰らぬ人となったのでした。
くもった鏡の夢
千菊丸が9才になったある晩、いやに鮮明な夢を見ました。
あるお寺のお経のおさめてあるお堂に、たくさんの鏡がありました。そこへ忽然と僧侶が現れて、くもった鏡を手に取り、
「お前のは、これだ。これを持って横川(よかわ)に行き、磨き上げてこい」
と言います。その鏡を受け取ったところで目が覚めました。
お母さんに話すと、
「鏡は智慧をたとえたものでしょう。お前はまだ智慧が暗いから、横川というのはどこか知らないけれど、そこへ行って仏道修行をして磨いてみよ、ということでしょう」
と教えてくれたのでした。
旅の僧侶を言い負かす
その後まもなく、事件が起きます。
ある日、友達と河原で遊んでいると、1人の旅の僧侶が川の水で鉄の鉢を洗い始めました。
それを見た千菊丸は、
「お坊さん、あっちにもっときれいな川がありますよ」
と教えてあげました。
にっこりと笑って、旅の僧は、
「元来すべてのものは浄穢不二(じょうえふに)じゃ。この水はきれいだとか、この水は汚いというのは、凡夫の迷いなのじゃ」
すると千菊丸は、
「それならどうしてお坊さんは鉢を洗っているの?」
と素朴な疑問を発しました。
これには唖然として、旅の僧は、答えることができませんでした。
千菊丸はそんなことは関係なく、もう向こうにいって小石を拾って遊び始めています。
旅の僧侶は、子供に言い負かされたとなると、そのまま帰るわけにはいきません。
千菊丸のほうへ近づいて行き、
「坊や、そなたはたいそう利口な子供じゃのう。わしには一つ分からないことがある。
今、そなたが一つ、二つ、三つと小石の数を数えておるが、9つまでは『つ』をつけて数えるのに、なぜ十(とお)は『つ』をつけないのじゃ?」
「そんなの当たり前だよ、お坊さん。
五つの時に『つ』を2回使ったんだから、もう十の時には足りなくなったんだよ」
それを聞いた旅の僧侶は、あっと目を見張り、
「こんなに頭のいい少年は初めて見た。もし出家して仏道修行をすれば、偉大な高僧になるかもしれん」
ともう言い負かされた悔しさはどこへやら、喜びがこみ上げてきました。
旅の僧侶は、千菊丸にお母さんのもとへ案内してもらい、自分の師匠である良源(りょうげん)について、比叡山に出家してはどうかと勧めたのでした。
お母さんは、突然の話にびっくりしましたが、父親の遺言でもあり、卜部家の後継者であったにもかかわらず、出家に同意したのでした。
9才、出家
数日後、良源からの使者がやってきました。
いよいよ旅立ちの日です。
お母さんは、
「今日からそなたは、比叡山に登って、仏門に入るのじゃ。立派な僧侶になるまで帰ってきてはならぬ」
と、父が肌身離さず大切に持っていた『阿弥陀経』を持たせ、涙の中に送り出したのでした。
千菊丸も、泣く泣くお母さんやお姉さんたちと別れを告げ、使者に連れられて、比叡山に登ったのでした。
13才、受戒・法名は源信
良源というのは、後に比叡山の座主になる人で、良源僧正とか、慈慧大師といわれ、天台宗中興の祖とされる有名な僧侶です。
良源は、千菊丸を一目見るなり、そのたぐいまれな才能と仏縁の深さを見抜きました。輝くまなこはいかにも利発で、その中に一抹の憂いを秘めています。
さっそく良源は厳しく指導を始めました。身の回りの世話をさせながら、僧侶の心構えや仏教の教えをみっちりと教え込みます。それは非常に厳格なものでしたが、千菊丸は、良源も舌を巻く勢いで習得していったのでした。
そのすばらしい成長ぶりに、やがて千菊丸が13才になると、良源は戒律を授け、自分の字を一字とって「源信」という法名を与えたのでした。
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