2025/01/12

トゥール・ポワティエ間の戦い(1)

トゥール・ポワティエ間の戦い(フランス語: Bataille de Poitiers、アラビア語: معركة بلاط الشهداء)は、732年にフランス西部のトゥールとポワティエの間で、フランク王国とウマイヤ朝の間で起こった戦い。ツール・ポアティエの戦いと呼称することがある。

 

その後も735 - 739年にかけてウマイヤ軍は侵攻したが、カール・マルテル率いるフランク王国連合軍により撃退された。

 

名称

英語では「Battle of Tours(トゥアー(トゥールの意)の戦い)」、アラビア語では「معركة بلاط الشهداء(マウラカト・バーラト・アル=シュハーダ(殉教者の道)の戦い)」と呼ばれる。イスラム教徒側の呼称の由来は、14世紀モロッコのマラケシュの歴史学者イブン・イダーリーの歴史書「アル=バヤーン・アル=マグリブ(البيان المغرب في اختصار أخبار ملوك الأندلس والمغرب、略称バヤーン(بيان ))」に由来する。同書のアンダルスの歴史の中で、イブン・ハイヤーンの資料から

「アンダルシアの支配者であるアブド・アッ=ラフマーン・イブン・アブドゥッラーフ・アル=ガーフィキー(以下、ガーフィキー)はローマ人の土地に侵入し、ヒジュラ暦115年に「殉教者の道(بلاط الشهداء)」として知られる場所で、彼の軍隊と殉教した。」

という記述があることによる。イブン・ハイヤーンは戦いの地で、アザーンが長い間聞かれるようになったと語っている。

 

背景

イスラム世界初の帝国であるウマイヤ朝は、第10代カリフのヒシャーム・イブン・アブドゥルマリクの時代で比較的安定していた。第6代カリフのワリード1世の時代に進行したイスラム軍は、アンダルス(現スペイン)を支配下に置いた。この征服に対し、現地のキリスト教領主たちは対抗し小競り合いが絶えなかった。シャリーア(イスラム法)のジズヤを貢納することで信仰の自由は認められていたものの、アラブ人とそれに追従したベルベル人、そして現地のキリスト教徒たちは相容れない生活を送っていた。またアラブ人が直轄する街ではイスラム色が濃く、問題も発生していた。

 

アル=アンダルスのワーリーであったアッ=サム・イブン・マリク・アル=ハウラーニーが、トゥールーズの戦いでヨーロッパへの領土拡張を行っている。トゥールーズの戦いでは、アキテーヌ公のウードの活躍により勝利した。

 

この戦いでハウラーニーは重傷を負い、まもなく亡くなった。しかしイスラム勢力の脅威が消えた訳ではなく、緩衝地帯に位置するアキテーヌには常に不安があった。

 

この後、ウード大公が自分の娘(おそらく名前はランペジア)をアル=アンダルスの副知事であるムヌザ(サルデーニャのムヌザ:カタルーニャの領主、ベルベル人)に嫁として送った。ウード公と和睦することで、アキテーヌを緩衝地帯とする目的があったと思われる。しかし、新たにアル=アンダルス総督に任命されたガーフィキーから、反乱を企てているとムヌザは疑われることになる。対するメロヴィング朝フランク王国の宮宰であるカールも、イスラム国家と通じることを良しとせず、アキテーヌへと侵攻した。

 

730年(ヒジュラ暦112年)にワーリーに任命されたガーフィキーは 、サルデーニャで独立政権を打ちたてようとしたムヌザを攻撃した。彼は殺され、妻(ランペジア)はヒシャーム・イブン・アブドゥルマリクのハレムへと送られた。ウード公は援軍を送りたかったが、不信を買った宮宰カールと交戦中でできなかった。

 

ウード公も宮宰カールに敗れ、アキテーヌは没収された。その後、ピレネー山脈を越えてウード公の領地であるアキテーヌへと侵攻するガーフィキー率いるイスラム勢力を、領土を失ったウード公と家臣たちは、ガロンヌ川の戦い(ボルドーの戦い)で対決する。ウード公の軍を破って、アキテーヌ北部まで侵攻し略奪を行った。

 

だが、ウード公は逃げ延び体制を建て直すため、宮宰カールへと救援要請を行った。イスラム勢力の侵攻を知った宮宰カールはウード公を自軍の右翼に組み込み、他の領主たちを集めてフランク連合軍を組織。トゥールとポワティエ間にある平野で、アル=アンダルス総督であるガーフィキー軍と衝突することになった。

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