2025/01/21

トゥール・ポワティエ間の戦い(3)

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トゥール・ポワティエ間の戦い

イスラム軍はボルドーを攻略後、ポワティエのイレーヌ教会を略奪し、トゥールに進軍してきた。カール・マルテルはこれを迎え撃ち、7日にわたる激戦の末に撃退した。これがトゥール・ポワチエ間の戦いで、イスラムのヨーロッパ侵攻を食い止めた(732)

 

カロリング朝        

 戦いに敗れたとはいえ、イスラム軍は依然として南フランスを占領していた。カール・マルテルがプロヴアンス地方からイスラム教徒を追い払ったのは738年になってからで、息子のピピン3世がナルポンヌを奪回したのは759年だった。これ以降、イスラム勢力はイベリア半島に封じ込められた。

 

 カール・マルテルの死後、息子のピピン3(小ピピン)が宮宰になり、メロヴィング朝の最後の皇帝を廃して王位についた。こうしてカロリング朝(Karolinger)が始まった(751)。ローマ教皇ザカリアスは、このクーデターを承認した。

 

 北イタリアでは、ゲルマン人のランゴバルド王国がラヴェンナを攻撃しローマに迫ってきた。ピピン3世はローマ教皇の救援要請を受けてイタリアに出兵し、ランゴバルド王国を討伐した。そしてラヴェンナと、その周辺をローマ教皇に寄進した。これはピピンの寄進と呼ばれ、教皇領の起源となった。

 

ローマ皇帝の戴冠

 ピピンの子カール大帝(シャルル・マーニュ)が王位につくと、積極的に外征を行い領土を広げた。まずイタリアのランゴバルド王国を、続いてザクセンやアジア系のアヴァール王国(Avars)を征服し、西ヨーロッパを統一した。ピレネー山脈を越えて後ウマイア朝も攻撃したが、これは失敗した。この事件を題材とした物語がローランの歌である。そしてイスラムの再侵入に備え、フランスとスペインの間にスペイン辺境領を設置した。

 

 カールは国を多くの州に分け、各州に伯(はく)をおいて統治させた。伯は貴族の称号になった。また首都アーヘンに人材を集め、教育や文化を奨励した(宮廷学校)。この学校は各地の修道院に広がり、ラテン語の教育が盛んに行われた。

 

 フランク王国はビザンツ王国にならぶ強国となり、8001225日、カール大帝は教皇レオ3世によりローマ皇帝の戴冠を受けた(カールの戴冠)。ここに西ローマ帝国が復活し、民族の大移動以来、混乱していた西ヨーロッパに平和が訪れた。ローマ教会はビザンツ皇帝から独立し、やがてギリシア正教会とローマ・カトリック教会に分裂することになる(1054)

 

フランク王国の分裂

 フランク王国は王が死ぬたびに相続争いが起き、843年のヴェルダン条約で西、中部、東の3王国に三分割された。中部フランクは長男のロタールが国王となったが、彼の死後、東フランク王国と西フランク王国に併合された(メルセン条約:870)

 

 異民族の侵入は激しく、東からはマジャール人、北からはスカンディナヴィアに住むヴァイキング(ノルマン人:北の人)、南からはアラブ人(ムスリム)が王国を荒らしまくった。

 

 ノルマン人の侵入に手を焼いた西フランク王は、ノルマン人の部族長ロロをキリスト教に改宗させ、ノルマンディー地方に定住することを認めた(911年、ノルマンディー公国の誕生)。異民族の侵入を防ぐため、辺境防衛を担った貴族は勢力を伸ばし、王権は弱まった。

 

 やがて、東フランク王国では王を選挙で選ぶようになり、10世紀に王位に就いたザクセン家のオットー1世が戴冠して、神聖ローマ帝国皇帝となった(962)。西フランク王国でも、パリ伯ユーグ・カペーが王に選出され、カペー朝フランス王国が始まった(987)。イタリアでは、各地の諸侯や東フランク王がイタリア王位をめぐって争い国は乱れた。

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