15才、天皇に説法
源信は良源の期待に応え、学問では比叡山で一二を争うほどになります。
その上、頭が良いだけでなく、修行もすばらしいもので、源信の評判はついに時の村上天皇にまで聞こえたのでした。やがて天皇から「宮中で『称讃浄土経』を講義せよ」といわれます。
『称讃浄土経』とは、『阿弥陀経』の異訳のお経です。鳩摩羅什の翻訳した『阿弥陀経』に対して、玄奘が翻訳したのが『称讃浄土経』です。
当日、源信が宮中に赴くと、目もくらむような清涼殿で、天皇を始め、たくさんの大臣たちが参詣しています。源信はそこで、弁舌さわやかに『称讃浄土経』を講義したのでした。
その堂々たる熱意と、講義の深さ、分かりやすさは、並みいる天皇や貴族をことごとく感嘆させ、源信は、その場で「僧都(そうず)」の位と、美しい衣をはじめとするたくさんの褒美の土産をもらったのでした。
母親の厳しい戒め
若くして時の天皇からほめられた源信僧都は、有頂天になりました。
お母さんにも教えてあげたら、きっと喜んでくれるだろうと、もらった褒美の品々をお母さんに贈って、手紙で報告したのでした。
ところが、お母さんの反応は意外なものでした。しばらくすると、すべての褒美の品々が送り返され、
「後の世を 渡す橋とぞ思いしに 世渡る僧と なるぞ悲しき」
という歌が添えられていたのでした。
「後の世」というのは、後世とか後生ともいいます。この後世について蓮如上人は、『御文章』にこう教えられています。
それ、八万の法蔵を知るというとも後世を知らざる人を愚者とす。
たとい一文不知の尼入道なりというとも後世を知るを智者とすと言えり。
(御文章五帖)
「八万の法蔵」というのは、お釈迦さまが説かれた一切経です。それだけではなく、この世のすべての知識が八万の法蔵に入ります。八万の法蔵を知る人というのは、何を聞いても答えられる人です。
普通はそういう人は賢い人です。ところが「愚者」というのは、愚か者ということで、バカのことです。何を聞いても適切に答えられるバカがいる。それはどんな人かというと、仏教では、後世が分からない人は、愚か者だということです。
「一文不知」というのは、本を読もうと思っても読めない人です。そんな文字が読めない人でも、後世を知る、後生明るい人が智者だと言われています。その後世を知らない愚者を、後世を知る智者にするのが、僧侶のつとめです。
「後の世を渡す橋」というのは、後生明るくなるように教える僧侶のことです。私がお前を比叡山にやったのは、後の世を渡す橋になれよと思ってのことなのに、世渡る僧となってしまった。何と悲しいことだろうか。迷いの人間からほめられて喜んでいるようでは、お前は何という情けない者になってしまったのだ。
このような歌の意味を、源信僧都はすぐに分かったのでした。そして深く反省した源信僧都は、天皇からの褒美の品はすべて焼き捨て、後生の一大事の解決一つのために修行に打ち込むのでした。
27才、源信僧都の聞法
源信僧都は無常をみつめ、一切経を5回もひもとき、小乗仏教も大乗仏教も、大乗仏教では華厳宗も法相宗も天台宗も真言宗も極めたのですが、後生の一大事の解決はできません。むしろ燃え盛る煩悩が知らされるばかりで、悪しかできない自己の姿に泣かされるのでした。
やがて27才のとき、こんな自分を導く先生はおられないものかと、比叡山を下りて各地を探し回ります。その時、源信僧都は、当時、大日如来が天照大神となって現れていると信じられており、奈良の大仏が建立される時も聖武天皇が仏の心を聞いたと伝えられる伊勢神宮に、7日間参籠したのでした。
すると7日目の明け方、夢に貴い女性が現れて、
「阿弥陀如来に向かうように」とのお告げを受けます。
空也との出会い
その後、源信僧都は、空也(くうや)も尋ねます。空也は源信僧都より39才年上で、もう60代でした。
当時、常に南無阿弥陀仏を称えながら、町中を巡り歩き、橋を架けたり井戸を掘るような社会貢献もして、民衆に人気がありました。その空也に個人的に会いに行ったのです。
源信僧都は、空也に尋ねます。
「私は心から浄土往生を願っているのですが、私のようなものでも浄土へ生まれられるのでしょうか」
ところが空也はこう言います。
「私のような無知な者にどうしてそんなことがわかるでしょうか」
「では、私はどうすればいいのでしょうか」
「もし智慧がなかったとしても、浄土往生を願う心がまことならば、阿弥陀如来はどうして放っておかれるでしょうか」
こうして源信僧都は、比叡山に帰り、30才頃には、比叡山の奥の横川に隠棲し、ひたすら後生の一大事の解決を求めたのでした。
30才、横川の僧都
横川というのは、20年以上前、夢にみたところでした。比叡山の根本中堂よりもさらに北へ5.5キロにあります。その横川の中堂である首楞厳院(しゅりょうごんいん)に移ったので、親鸞聖人は源信僧都のことを「首楞厳院」とか、「楞厳の和尚」いわれることがあります。
その後は、恵心院(えしんいん)に移ったので、恵心僧都ともいわれます。また、紫式部の『源氏物語』に出てくる、横川の僧都のモデルになったともいわれます。
こうして源信僧都は横川に入り、34才の時に仏教の論争のために山を下りて、2人論破した以外は、ひたすら後生の一大事の解決一つに打ち込んだのでした。そしてついに、七高僧の5番目の善導大師の指南により、阿弥陀如来の本願に救われたのでした。
このことを親鸞聖人は『正信偈』に、源信僧都がこうおっしゃっているといわれています。
我亦在彼摂取中(がやくざいひせっしゅちゅう)
煩悩障眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいふけん)
大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)
(正信偈)
これは、『我もまた彼の摂取の中にあれども、煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども、大悲ものうきこと無くして常に我を照らしたまう』といえり」と読みます。
「我もまた摂取のうちにある」というのは、「我」は源信僧都のことです。
「摂取」というのは、阿弥陀如来の摂取の光明のことで、阿弥陀如来のお力です。阿弥陀仏のお力によって、私も死ぬと同時に浄土へ往ける絶対の幸福に救われた、ということです。
ところが、絶対の幸福に救われても、欲や怒りの煩悩は少しも変わりません。
「煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども」というのは、煩悩が邪魔して、肉眼で阿弥陀如来を見ることはできないけれど、といわれています。ですが、阿弥陀如来に救われてからは、夜昼常に阿弥陀如来の大慈悲に守られ、浄土往生は間違いなしの絶対の幸福に生されているのだ、というのが
「大悲ものうきこと無くして常に我を照らしたまう」ということです。
このように、阿弥陀如来の本願に救いとられた源信僧都は、生きている時に絶対の幸福に救われる、平生業成の教えを明らかにされているのです。
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