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レコンキスタの開始
西ゴート王国が滅亡しても、その家臣ペラーヨ(Pelayo)はカンタブリア山脈に逃れて抵抗を続けた。彼はアストゥリアス王国を建国してレコンキスタを開始した。722年には押し寄せてきたイスラム軍をコバドンガの戦い(Covadonga)で破り、イスラム軍に対して初めての勝利をつかんだ。
3代目のアルフォンソ2世(760~842年)の時に、星に導かれた羊飼いがキリストの弟子ヤコブの墓を発見した。そこがサンティアゴ・デ・コンポステーラでローマ、エルサレムと並ぶ巡礼地となった。レコンキスタの機運は一気に高まり、首都をオビエド(Oviedo)に移して南のドゥエロ川流域に進出していった。
次のガルシア1世は首都をレオンに移し、アストゥリアス王国をレオン王国に改名した(910年)。レオンはナバーラやカスティーリャの支援を得て、イスラム軍と激しい戦いを繰り広げた。しかし、常に劣勢で一時はイスラム軍に国内を蹂躙された。その後、レオン王国はカスティーリャ・レオン王国となり、さらにカスティーリャ王国となった。
小王国乱立
後ウマイヤ朝の滅亡後、小王国に分裂したイスラム勢力は、絶えず紛争を繰り返した。そのためイスラムの結束は弱まり、キリスト教国に対する軍事的優位も失われていった。1085年、カスティーリャ・レオン王アルフォンソ6世はトレドを攻め落とした。トレドの陥落は、イスラム小王国に深刻な打撃を与え、彼らは北アフリカのムラービト朝に援助を求めた。
1086年、ムラービト王ユースフ(Yusuf:ヨセフのアラビア語読み)はイベリア半島に渡り、サグラハス(サラカ)の戦い(Sagrajas/Zalaca)でアルフォンソ6世(AlfonsoⅥ)を破った。そして、分裂した小王国を征服してアル・アンダルスを統一した。
エル・シッド
イスラム王ユースフに敢然と立ち向かったのが、カスティーリャ王アルフォンソ6世の臣下エル・シッド(El Cid)である。彼はアルフォンソに嫌われて追放されたが、彼を慕う多くの兵士とともにバレンシアを攻め、イスラムから奪還した(1094年)。しかし、5年後にエル・シッドが他界すると、バレンシアは再びイスラム軍に占領された。
エル・シッドとは、アラビア語の「わが主」という意味で、ムーア人が彼の勇敢さを讃えて付けた名前である。彼の本名はロドリーゴ・ディアスという。
【ムーア人(moor)】北アフリカのイスラム教徒のことでベルベル人を指す。スペインではモーロ人と呼ぶ。大航海時代にフィリピンでイスラム教徒と出会ったスペイン人は、彼らをモロと呼んだ。
ムラービト朝からムワッヒド朝へ
ユースフが亡くなるとムラービト朝は衰退し、1118年にはアラゴン王国にサラゴサを奪われた。モロッコ国内ではイスラム改革運動(ムワッヒド運動)が始まり、ムラービト朝に代わってムワッヒド朝が興った(1147年)。この混乱期にアル・アンダルスは再びグラナダ、マラガ、バレンシアなどの小王国に分立した。キリスト教軍は勢いを取り戻し攻勢を強めた。
これに対して、北アフリカを統一したムワッヒド朝がイベリア半島に進出し、反撃を開始した。第3代アミールヤアクーブ・マンスールは、カスティーリャのアルフォンソ8世を破り、アル・アンダルスの大部分を手中におさめた(1195年)。またもや、レコンキスタは頓挫した。
13世紀になるとムワッヒド朝は衰え、カスティーリャは反撃に出た。1212年、カスティリャ、アラゴン、ナバラ、ポルトガル、宗教騎士団からなるキリスト教連合軍はトレドに集結した。そして、ラス・ナバス・デ・トロサ(Las Navas de Tolosa)の戦いでイスラム軍に壊滅的な打撃を与えた。ムワッヒド王は命からがらモロッコに逃れ、以後イベリア半島のイスラム勢力は後退の一途をたどることになった。
レコンキスタの進展とポルトガル
ムワッヒド朝がイベリア半島から撤退すると、アル・アンダルスは再び権力の空白地帯となり、ムルシア、バレンシア、グラナダなどのイスラム王国が乱立した。これらの王国は、キリスト教軍に個別に撃破されていった。レコンキスタは最終局面に入った。
1236年にコルドバが、1238年にはバレンシアが陥落、1244年にムルシア、1248年にセビリャが攻略された。カスティーリャ・レオン王国から独立したポルトガルは、1147年にリスボンを奪還し、1249年までに国内のイスラム勢力を全て追い払った。
イベリア半島のイスラム勢力は、グラナダのナスル朝を残すのみとなった。ナスル朝はカスティーリャ王国に臣従する形で国を存続させていた。
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