2025/01/29

アッバース朝(2)

アッバース朝革命(英語: Abbasid revolution)は、8世紀にウマイヤ朝が滅亡し、アッバース朝が成立した一連の過程を指す歴史用語である。軍事的には747年にイラン東部のホラーサーン地方で蜂起が始まり、749年に革命軍が革命運動の本拠地クーファに入城、アッバース家の人物をカリフに推戴した。翌年にダマスクスに進軍、ウマイヤ朝軍を破り終結した。アッバース朝革命の前後で、帝国の構造・社会・文化のありかたが大きく変容し、影響は単に支配家系がウマイヤ家からアッバース家に交替したにとどまらなかった。

 

研究小史

8世紀中葉、ウマイヤ朝からアッバース朝への王朝交替があったことは古くから知られていたが、この歴史的事件に人種主義的な意義づけを与えたのは19世紀末のヨーロッパである。オランダの東洋学者フロテンは、この事件が重税に苦しんでいたイラン人の支配者アラブに対する反乱であったと考え、事件の動因をイラン民族主義と、その表れであるシーア派思想に帰した。

 

ヴェルハウゼンは、このような「イラン民族主義説」を否定し、改宗非アラブのマワーリーの税制上の不平等に起因すると論じた。ヴェルハウゼンによると、革命軍の兵士たちの大半はメルヴ諸村のイラン人農民であるが、革命の指導層にはアラブもいたし、シーア派思想はイラン民族主義とは無関係に生じたものである。革命派のアラブもイラン人も、ともにカイサーン派の一分派であるハーシミーヤに属していたとした。

 

ヴェルハウゼンは1902年に発表した著作の中で、非アラブの改宗者を税制上差別したウマイヤ朝を「アラブ帝国」、改宗者の税制上の差別を撤廃したアッバース朝を「イスラーム帝国」と呼んだ。アラブ帝国ウマイヤ朝から、イスラーム帝国アッバース朝へというヴェルハウゼンの理論は、その後数々の修正を加えられながらも現在(少なくとも20世紀末)でも有効であると言われている。

 

背景

正統カリフの時代の後、661年に成立したイスラーム史上最初の世襲王朝、ウマイヤ朝の正統性には当初から疑問が抱かれていた。ハワーリジュ派と総称される反体制運動が絶え間なく続いた。ムアーウィヤが、それまでの慣例に反して世襲制を導入したことや、その結果即位した第2代カリフのヤズィード1世が、カルバラーでアリーの子イマーム・フサインを殺害したことなども、各方面からの非難を招いた。さらにウマイヤ朝はアラブ人を優遇し、非アラブ人はたとえイスラームに改宗したとしてもマワーリーとして差別され、ジズヤ(人頭税)の支払いを課せられていた。そのうえ歴代カリフのほとんどがイスラームの戒律を軽視し、世俗的享楽に耽ったことも厳格なムスリムたちに批判された。

 

ウマイヤ朝治下では絶えざる反乱や蜂起が続いていたが、743年に有能な第10代カリフ、ヒシャームが死去したことによって、王朝の衰勢は決定的なものとなった。

 

主要な要因としては、以下のものが挙げられる。

 

    南アラビア系アラブ人の子孫と、北アラビア系アラブ人の子孫の対立

    それを背景とした宮廷の内紛とカリフ位をめぐる争い

    無能なカリフの続出

    シーア派の影響力拡大と反体制運動の激化(ザイド派の反乱など)

    ウマイヤ朝の支配に対する非ムスリムやマワーリーの不満と、イラン人(ペルシア人)民族主義の台頭(シュウービーヤ運動)

 

こうした社会的混乱が広がる中に、預言者ムハンマドの叔父の末裔・アッバース一族が登場し、各地の不満分子を利用しながら自らの権力獲得を目指すことになる。

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